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レチタティーヴォとアリア「哀れなる私、哀れ幼な子よ」 K.77

  1. レチタティーヴォ・アコンパニャート (Andante) "Misero me! Qual gelido torrente"
  2. アリア (Adagio) "Misero pargoletto"
〔編成〕 S, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1770年3月初 ミラノ
1770年2月



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タイトル「Misero me. Misero pargoletto」の訳語について、[事典]・[書簡全集]・[全作品事典]では「私はなんと不幸なんだ、あわれな幼子よ」となっている。 ケッヘル第6版番号は K6.73e である。

14才の少年モーツァルトは、1769年12月13日、父に連れられて初めてのイタリアへの旅に出た。 行く先々で賞賛され、1回目のイタリア旅行は大成功に終り、1771年3月28日ザルツブルクに帰郷する。

18世紀には文化が国際化していったが、音楽の面でいえば貿易のバランスは、どこでも大きくイタリアに傾いていた。 イタリアはまさに音楽の、演奏家の、作曲家の輸出国であった。 したがって、モーツァルトがイタリアの音楽の砦を直撃し、そこで驚嘆され受け入れられたということは、驚くべき逆転現象であり、レオポルト・モーツァルトのプロモーターとしての才能の偉大な成果であり、その歴史感覚は賞賛されてよい。
[ソロモン] p.141
もちろん「イタリアでの勝利は、やすやすと無抵抗のうちに達成されたものではなかった」が、やがて温かく歓迎してくれる人たちにめぐり会うことができた。
ミラノに着くと強力な貴族たちの庇護が得られたが、その中の主力は総督カール・ヨーゼフ・フィルミアン伯爵だった。 これによりモーツァルト父子は急速に勝ち戦に転じる。 ミラノでは自邸でガラ・コンサートを開いてくれるなど援助を惜しまず、フィルミアン伯爵は、たくさんの紹介状を書いて、父子がボローニャ、パールマ、フィレンツェ、ローマ、ナポリなどを訪問する手はずを整えてくれた。
同書 p.144
この曲はミラノに滞在していた1770年3月初めに作曲されたものと推測されている。 当地ではカール・ヨーゼフ・フィルミアン伯爵(当時54歳)に歓待され、その縁のお陰で作曲の機会に恵まれていた。 父レオポルトが郷里の妻へ書き送った1770年2月27日の手紙には、
四旬節の第二週か火曜日には、神のご加護により、ミラノを発ち、パルマに向かうことになるでしょう。 私たちはもっと前に行きたいのですが、フィルミアーン伯爵閣下が四旬節第一週にお邸で貴婦人がたのための大音楽会を催されるお考えですし、ほかの用事もすませてしまわなければなりません。
(中略)
ヴォルフガングはアリアを2曲作曲中です。
[書簡全集 II] pp.72-73
とあり、その2曲のうちの一つがこの曲である。 ただし誰のために作曲したのかは不明。 そして手紙にある通り3月12日にフィルミアン伯爵邸で音楽会が催され、その中で初演されたと思われる。 その翌日(3月13日)には、レオポルトは妻に「昨日の演奏会用に、アリア3曲とヴァイオリン伴奏つきのレチタティーヴォを1曲作曲した」ことを伝えているが、その「ヴァイオリン伴奏つきレチタティーヴォ」とは、この曲のレチタティーヴォ・アコンパニャートだろうと思われている。
その後、モーツァルト父子は3月15日木曜日にミラノを離れ、24日土曜日にボローニャに到着。 それからイタリア各地を転々とし、1年かけてザルツブルクに帰郷することになる。

歌詞はメタスタージオ詞『デモフォオンテ Demofoonte』から。 そのオペラの内容は、デモフォオンテ王の息子ティマンテと妹ディルチェーアの二人が、それと知らずに近親相姦により子供をもうけるという罪を犯すが、のちにティマンテは王の実子ではないことがわかるという筋書きになっている。 モーツァルトはこのオペラから5曲のコンサート・アリア(K.77、828374b368)を作曲したが、この曲は第4場(レチタティーヴォ)と第5場(アリア)で歌われる歌詞に曲をつけたものである。

ティマンテはソプラノ歌手により歌われるが、彼は、自分の妹と彼が信じる女性と結婚してしまったことがわかった恐怖の感情を独白するものである。 長く堂々としたレチタティーヴォは、モーツァルトが最初に作曲した、大規模な劇的「レチタティーヴォ・アッコンパニャート(伴奏付きレチタティーヴォ)」である。
[全作品事典] p.105
このような内容の曲を14歳の少年モーツァルトが作曲した(できた)ことは驚きであるが、アインシュタインはこの曲の背景にヨハン・クリスティアン・バッハのオペラ『シリアのアドリアーノ Adriano in Siria』の中のアリアがあることを指摘している。 9歳のモーツァルトは1765年にロンドンでマンツォーリ(Giovanni Manzuoli, 1725?-80?)がそのアリアを歌うのを聴いていた。 アインシュタインは2つのアリアの冒頭を比較し、次のように言っている。
モーツァルトのアリアはこの《スプリングボード》のおかげできわめて卓越した曲になっているので、もし成立日時が知られず、オーケストラのパートがまたもやお飾りたくさんでなかったとしたら、はるかのちの時代のものと思われたことであろう。
[アインシュタイン] p.487

〔歌詞〕
Misero me! Qual gelido torrente
Mi ruina sul cor! Qual nero aspetto
. . .
哀れな子よ、お前は運命を知らないのだ。
しかし決して言うまい、お前の父が誰であるかを。

〔演奏〕
CD [Brilliant Classics 93408/2] t=13'01
Miranda van Kralingen (S), European Sinfonietta, Ed Spanjaard (cond)
2002年8月、Nieuwe Kerk, The Hague, The Netherlands

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2018/11/04
Mozart con grazia