Mozart con grazia > 年代記 > 1772年
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1772年

16歳

2月

21日、

を作曲。 動機は不明だが、2ヶ月前の第14番 K.114 との主題上の連関が指摘されている。

この頃、次の教会ソナタを作曲したかもしれない。

3月

3月から4月にかけて、父の作品をモデルにして を作曲。

Colloredo 14日ヒエロニムス・コロレド伯(40歳)がザルツブルクの新大司教に就任。 彼は前任者のように寛大ではなく、以後モーツァルトにとっては忌まわしい人物となり、ついには大喧嘩の末、1781年、 モーツァルトはウィーンに定住して自由な活動をすることになる。 父レオポルトは両者の間にあって苦しむことになる。
コロレドがまずモーツァルトに求めたことは、教会での典礼音楽を短く簡明にせよ、ということだった。

この年の初めから3月にかけて、3曲のディヴェルティメント

を作曲。 これらに共通するのは、弦楽四重奏にコントラバスを加えた五重奏の編成であることと、3楽章という型破りな構成。 ザルツブルクにいた先輩のミハエル・ハイドンからの感化と、イタリアで受けた様々な影響と考えられる。

この頃の作かもしれない歌曲

があるが、これらは父の作かもしれないという。

フリーメーソンのヨハネ分団における儀式のための賛歌

を作曲。

5月

を初演。 これは、1月に予定されていた大司教シュラテンバッハ在位50周年記念のために作っていたものを、突然の死によりそれを新大司教ヒエロニムス・コロレド伯の新任祝典のために書き直したもの。 なお、序曲は「シンフォニー K.141a」となる。

ザルツブルク宮廷のソプラノ歌手マリア・マグダレナ(ミハエル・ハイドン夫人)のために

を作曲。 たぶん復活祭前の聖土曜から三位一体祭の前日までの間に演奏された。

聖体降福式のためのモテットとして2曲のタントゥム・エルゴ

を作曲。

新大司教に聴かせるために、3つのシンフォニー

を作曲。 K.128とK.129は3楽章であるのに対して、新大司教にドイツ風のも作れることを示すためにK.130は4楽章にしたという。 それは今までの自分の集大成としてまとめたようで、昔からモーツァルト研究家の間で評価の高い曲でもある。
イタリア旅行からザルツブルクへ戻った約1年間に交響曲に打ち込み、8つの作品(第14番〜第21番)を残した。 第18番以降では1曲毎に管楽器の組合せを変えている。 この曲以外にフルート2、ホルン2という組合せの交響曲は第27番K.161bしかない。 この一連の作品に対して、サン・フォワは「彼にとって深い研究の対象でなかった交響曲のどんな部分も、交響曲様式のどんな側面もない。 この深い研究のおかげで、このジャンルのすべての要素が変貌を遂げ、その変貌が楽曲の規模、管弦楽法の自在さと多彩さ、表現の強度と旋律線の澄み切った美しさとして現れている」と述べ、青年モーツァルトの霊感が高まり、ロマンチックな危機を経験しつつあったと推察。

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6月

を作曲。

7月

2つのシンフォニー を作曲。

この頃

を作曲したらしい。

8月

9日、宮廷楽団の主席ヴァイオリン奏者に任命される。 年俸は150グルテン。ロバート・マーシャルによると、1990年のドル換算で約3000ドルに相当するという。 を作曲。 また、この頃、対位法の習作として を作曲したかもしれない。

10月

24日、父と二人で3回目のイタリア旅行に出かけた。

10月末から11月初にかけて、ボルツァーノかヴェロナで

を作曲。 なお、この曲から第7番K.159a (160)までの6曲は「ミラノ四重奏曲」と呼ばれる。

11月

4日、ミラノ到着。 ルチオ・シラの作曲にとりかかっていた。

11月か12月、ミラノで

を作曲。 父レオポルトは短調の第2楽章が聴衆に合わない難しい曲だとして気に入らず、書き直すように言ったという。

12月

5日、ミラノから姉への手紙
もう14曲作らなければなりません。 それで出来上りです。 ぼくはオペラのことばっかり考えているので、姉さんに言葉を書かずにアーリアをそっくり書いてしまいそうになるくらいです。

10月から12月にかけて、

を作曲。 2年前のイタリア旅行のとき、1773年のカーニヴァル用として、このオペラの作曲を委嘱されていた。 当時の名歌手アンナ・デ・アミーチスのために全力投入したといわれる。

18日、ミラノから姉へ右のような手紙を書き送っている。 ハートに火がついて燃えている側に鳥が「さあ、飛んで行って僕の可愛い子ちゃんを探せ。 そこらじゅう、すみずみまで探せ!」と言いながら飛んでいる漫画が書いてあり、その周りに手紙の文が輪になっている。 そこには「姉さんがこの手紙を受け取る頃、オペラ『ルチオ・シラ』が上演される」ことが書いてあり、それを包み込むように得意の悪戯っぽい冗談に溢れていて、作曲の仕事をうまく仕上げた高揚感に満ちている。

26日、ミラノのレッジオ・ドゥカール劇場でオペラ「ルチオ・シラ」初演。


この年のザルツブルクでの作と思われている作品

72年か73年、ザルツブルクでの作と思われている作品


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2003/04/30
Mozart con grazia