Mozart con grazia > 年代記 > 1773年
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1773年

17歳

1月

前年末からこの年の初めにかけて、滞在中のミラノで、通称「ミラノ四重奏曲」の残り第3番から第6番が作曲された。

16日
「ルチオ・シラ」のチェチーリ役を努めたカストラートのラウツィーニのために、

をミラノで作曲。エアチノ修道会教会で初演。

2月

ヨーゼフ・シュタルツァーのバレー音楽をモーツァルトが記憶によって記したと思われているスケッチ がある。

3月

ミラノで、 を作曲。 その終楽章は未完のバレー音楽「後宮の嫉妬」から流用。

13日、ザルツブルクに帰郷。 父レオポルトはミラノで自分の病気を口実にして帰郷を延ばし、息子の就職先を探したが失敗に終った。

24日、ザルツブルクで

を作曲。 自筆譜に日付が書かれているが、ただしザルツブルクの宮廷楽団には、1777年までクラリネットもイングリッシュ・ホルンもなかったので、オペラ「ルチオ・シラ」初演のためのミラノ滞在中に作曲されたかもしれない。

30日

を作曲。 3回目のイタリア旅行からザルツブルクに帰って間もなく9つの交響曲(第22番から第30番まで)が作られ、その自筆譜は父の手でまとめられ合本とされ、作曲時期が消されてしまった。 これらはレオポルト合本と呼ばれている。

4月

10日か16日 を作曲。

14日、自分自身またはブルネッティのために

を作曲。

19日か29日

を作曲。

5月

19日 を作曲。

6月

ザルツブルクで、 を作曲。 これは、この頃 を書きかけたものを中断して、作ったと思われている。

7月

ザルツブルクのアントレッター家の依頼で を作曲。 父の書簡によれば、当家の息子ユーダス・タドイスが大学を卒業するので、その祝典用に大学から当家を仲介して頼まれたらしい。

ザルツブルクのアントレッター夫人のために

を作曲したらしい。 ただし、翌月ウィーンで(別の目的で)作ったのかもしれない。

14日、父と二人で3回目のウイーン旅行に出る。

16日、ウィーン到着。

8月

14日、ウィーンから姉へ
女王さま、たいそうお元気でお過ごしのことと存じます。 それにしましても時折は、あるいはむしろ時々は、いやそれよりもしばしば、 さらによく申せば南蛮人の言葉を借りてクアルケ・ヴォルタ(いくたびか)あなたさまの大事な、そして切なるお考えを、それはあなたさまが、 その見目麗しさに加えてお持ちになる世にも美しく確かな理性から生じますもので、そのうら若いお年とかよわい婦人の身にはおおよそ望むことかなわぬもの、 世の男の子たちも、いや、年老いた人たちさえ恥入るほどのものでありますが、私も幾分たりともお分かち下さいますように。

ヴォルフガングの就職がうまく決まるように、事態を好転させようとして父レオポルトが命じて作らせたいわゆる「ウィーン四重奏曲」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲シリーズが生まれる。

21日(ウィーン)、姉へ

時間の恩恵を考え、それでいて太陽のありがたさをまったく忘れてしまうことがないならば、僕はありがたいことに健康であることは確かです。 でも第2の命題はすっかり違ったものになります。 太陽の代わりに月を、恩恵(グンスト)の代わりに芸術(クンスト)を置くとしましょう。 すると、少しでも生まれながらの理性を備えた人は誰でも、あなたが僕の姉さんだから僕は馬鹿だと推論するでしょう。ミス・ビンベスはどうしていますか。 僕からいろいろとよろしく言って下さい。
らなうよさ、トルァツーモ・グンガフルォヴ
ミス・ビンベスとは、モーツァルト家の飼犬ビンバールのこと。

9月

8日、ウィーンから母へ
ヴォルフガングは手紙を書く暇がありません。 何もすることがないからです。 蚤を取っている犬のように、部屋の中でぐるぐる歩き回っています。

ウィーンで、「ウィーン四重奏曲集」の残り2曲

を作曲。

この頃、ウィーンで、サリエリのオペラ「ヴェネチアの市」のアリア「わが愛しきアドニス」の主題による

を作曲したらしい。
夏の終か秋、ウィーンかザルツブルクで を作曲したらしい。 これは、翌年4月4日にウィーンで初演される。 その後1779年にベーム劇団がザルツブルクで上演するとき、書き直したという。

26日、父子はザルツブルクに帰った。

Mozart' Wohnhaus 下旬、モーツァルト一家はヴォルフガングが生まれたゲトライデガッセ(家主ハーゲナウアー)からハンニバル(現在のマカルト)広場にあるもっと大きな住居に引越した。 24歳まで住むことになる。以前の住人から「舞踏教師の家(タンツマイスターハウス)」と呼ばれていた。 現在はモーツァルト博物館となっている。

10月

3日、レオポルト合本第5番となる を作曲。 ウィーンへたつ前にほとんど作られていて、帰郷後に仕上げたのかもしれない。

5日、続けて

を作曲。 レオポルト合本第6番。 これは以前の交響曲と異質。 ウィーン滞在中に知った新しい傾向による。

12月

ウィーン旅行から帰って、既に完成していた曲の第3楽章のトリオと終楽章の全部を作曲し直して を完成。

モーツァルト自身の手になる最初のクラヴィア協奏曲

を作曲。 この曲にかなり愛着を持っていたようで、ウイーン時代においても大切なレパートリーとしていた。 さらにフィナーレはウィーン風に書き直され、それが独立した曲「ロンドK.382」として演奏される。

この年のザルツブルクのカーニヴァル・シーズンのために

を作曲。 これは少年期の終りを飾る傑作の一つ。

年末に

を作曲。


この年の作品と思われているもの
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2001/04/01
Mozart con grazia