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1775年

19歳

1775年1月






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1月

3日、姉ナンネルがロビニッヒ家の人たちとミュンヘンにたった。 目的は弟のオペラ『偽の女庭師』を観るためである。

11日、ミュンヘンから母へ

ありがたいことに、僕たち3人はたいそう元気です。 明日、僕の本稽古があります。そして13日の金曜日に上演されます。 昨日、僕たちは仮装舞踏会へ行きました。

13日、ミュンヘンのザルヴァートル劇場で

が初演された。 これは、前年9月、ミュンヘンの選帝侯マクシミリアン3世から作曲を依頼され、同年12月に初演の予定だった。

14日、母へ

ありがたや! 僕のオペラは昨日上演されました。 大変な成功で、その大騒ぎの様子をママにお伝えすることは僕には到底できません。 まず第一に、劇場は大入り満員で、諦めて帰らなくてはならない人が沢山いました。 どのアリアの後でも必ず大喝采がわき起こって、『マエストロ万歳』が叫ばれました。 僕の向いにいらした選挙侯妃殿下も太后もブラボーと言われました。
しかし、そんな大成功にもかかわらず、歌手の病気などもあって、合計3回上演されるにとどまる。 モーツァルトの人気も長続きせず、謝肉祭の騒ぎが終る頃には、これといった成果もなく父子はザルツブルクに引き上げて行かなければならなかった。

この頃、ミュンヘンで

を作ったらしいが、行方不明。 デュルニッツ男爵の遺品の中から見つかったファゴット(バスーン)のための作品の一つと伝えられている。

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2月

1月か2月、オペラ・ブッファ「偽の女庭師」を上演したとき、選帝侯マクシミリアン3世の求めに応えて

を大急ぎで作曲。 この作品については、1776年9月4日、マルティーニ神父に批評をあおいだところ、その3ヶ月後に賛辞の返事をもらっている。

さらに、ミュンヘンで、デュルニッツ男爵のために6曲の

を書いた。 チェンバロに代わってフォルテピアノという楽器が登場し始める頃の曲で、その楽器の可能性に対する大きな興味から生まれた。 2年後のアウクスブルクからパリへの旅行でも、この6曲をよく演奏していたという。

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3月

7日、ヴォルフガングと父姉の3人は、母の待つザルツブルクに帰った。

帰郷後、

を作曲したが、紛失。

4月

19 - 20日、アメリカ独立戦争が始まる。 5月にイギリス増援軍がボストンに上陸。 6月にはアメリカ連合軍が組織される。 翌年3月にイギリス軍はボストン攻囲戦に敗れ、撤退することになる。

23日、女帝マリア・テレジアの皇子マクシミリアン・フランツ大公のザルツブルク訪問を記念して

が初演された。 これはザルツブルク大司教の依頼で作曲した劇場用セレナータ(演奏会形式のオペラ)であり、20日に試演されていた。 また、22日には楽長フィスキエッティ作の劇場用セレナータがやはりマクシミリアン・フランツ大公のために上演された。 オペラ劇場のないザルツブルクでは本格的なオペラは上演できなかったので、宮廷の一室を劇場に見立てて、歌手がそれらしい格好で、簡単な身振りをつけて歌う軽いオペラが上演されていた。 観客も役者もステージに見立てた台を囲むようにして周りに座ったという。 この序曲からシンフォニー(K.213c)を作っている。

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5月

19日、ザルツブルクで上演されたピッチーニのオペラ・ブッファ「幸運な賭博師」(?)に挿入するために

を作曲。 さらにこの頃、ドメニコ・フィスキエッティ作「マルマンティーレの市」への挿入として や、チェコの作曲家ミスリヴェチェク(1737-81)のアリアを改作して、 も作ったらしい。

1775年6月



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6月

14日、彼自身またはブルネッティのために

を作曲。

自筆譜には1776年とあるが、タイソンの推定により、この頃

を作曲したらしい。 動機・目的は不明だが、ザルツブルクの聖ペーター教会のためらしい。 「シュポウル・ミサ」とも呼ばれる。

7月

ザルツブルク大司教のために

を作曲。 ディヴェルティメントの方は食卓音楽であり、これから1777年までの間に同じ楽器編成のディヴェルティメントを6曲(どれも10分少々の演奏時間)作る。

1775年8月

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8月

5日、自筆譜の日付がなぜか消されたが、ザルツブルク大学の修了式のために

を作曲。 また、このセレナーデを改編して交響曲(ニ長調)を作った。 好評でオリジナルより有名になったという。

9日、ザルツブルク大学の修了式があり、上のセレナード(交響曲版)が演奏されたらしい。

20日、

を作曲したが、これに対応するセレナーデあるいはディヴェルティメントが見つからない。

23日、再びフィナール・ムジークがあり、上のセレナードが演奏されたらしいので、そのために行進曲を作り替えたのか。 不明。

1775年9月




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9月

12日、

を作曲。 第1楽章の主題は、4月23日に完成した「イル・レ・パストーレ」アミンタのアリアの管弦楽による冒頭の旋律を借用したものか。

10月

26日、

を作曲。

彼自身またはブルネッティのために

を作曲。

12月

20日、

を作曲。 これは一連のザルツブルク協奏曲の最後。習作的な第2番からわずか半年で急速に進歩した。



この頃の作品と思われているもの


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2018/01/07
Mozart con grazia