Mozart con grazia > 年代記 > 1786年
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1786年

30歳

1786年1月






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1月

10日、弟子シャルロッテ・ヴュルベンのために? を作曲。

14日、 ウィーンで新しい支部の集会があり、昨年末に作った2つの合唱曲K.483(開会)とK.484(閉会)が歌われた。

2月

3日、「自作目録」に を書き込んだ。 これは、オランダ総督(ザクセン・テッシェン大公アルベルト夫妻)がウィーンへ来るので、ヨーゼフ2世は祝典を催すことになり、その余興としてモーツァルトとサリエリの競演が企画されたことによるもの。 シュテファニー詞によるこの劇作品はオペラというより田舎芝居であり、モーツァルトは腕をふるうことができなかった。

7日、ウイーンのシェーンブルン宮のオランジュリー(果樹園)で、オランダ総督を迎えた演奏会があり、モーツァルトの「劇場支配人」とサリエリのオペラ・ブッファ「まずは音楽、お次がせりふ」が初演された。 後者の台本は非常に機知に富んで面白く、「支配人」に人気は集まらなかった。

11日から3月4日まで、父レオポルトはミュンヘンのマルシャンのもとに滞在。

19日、宮廷の仮面舞踏会にモーツァルトはインド人の哲学者に扮して出た。 そして自作の8つの謎と14の「ゾロアスター断章」が書かれたビラを配ったという。 フリーメーソンの教義を意識したものか。 モーツァルトの自由なコスモポリタンぶりは貴族たちに警戒心を抱かせ、うとましい人物として見なされただろう。 それに乗じてサリエリがうまく自分を売り込んだかもしれない。

謎についての参考文献
● メイナード・ソロモン 「モーツァルト」 石井宏訳 (新書館) pp.524-547
● 海老沢敏&高橋英郎 「モーツァルト書簡全集 VI」 (白水社) pp.258-262

3月

2日、 を作曲。 これは少なくとも1年前に既に作られていたらしいが、第1楽章の下書きではオーボエが指定されていたところをクラリネットに変更して完成した。 その調性と楽想において、後の「クラリネット五重奏曲」や「クラリネット協奏曲」を先取りしているといわれる。

10日、1781年にミュンヘンで初演されたオペラ「イドメネオ」が3月13日にウィーンでアマチュアの貴族たちによって(アウエルスベルク侯爵邸で)演じられることになったので、技量に合わせて書き直し、

を作曲。

13日、「イドメネオ」がアウエルスベルク侯爵邸で上演された。 そのときハッツフェルト伯爵がシェーナ「もういいの、私は全てを聞いた」K.490のヴァイオリン独奏パートを受け持ち、また彼の義妹マリア・アンナ・ホルテンジアがエレットラを歌ったという。

24日、

を作曲。 ピアノ協奏曲の中では最大の構成になっている、この曲には謎がある。 それは余白に人物の横顔が書かれてあることで、この最高傑作を作る際に彼は何を思っていたのだろう。 なお、彼のピアノ協奏曲の中で短調作品はこれとニ短調 K.466 の2つだけ。

Bertramka 3月中旬、ザルツブルクからドゥシェク夫妻がウィーンを訪れ、ブルク劇場でコンサートを開いた。 ピアノ伴奏はモーツァルトが行った。 夫妻は4月12日に帰郷し、それから別荘ベルトラムカ(右の写真)のあるプラハに行った。

4月

29日(ウィーン)、前年10月末から作り始めていた が完成。 この原作のボーマルシェの喜劇はパリを始めヨーロッパ各地で人気があったが、ウィーンでは上演禁止となっていた。 それをダ・ポンテは原作から政治色を除き、オーストリア皇帝から上演許可をもらった。

5月

1日、ウイーンのブルク劇場で「フィガロの結婚」の初演。 ほとんど全部の曲がアンコールされた。年内に9回上演されたという。

1786年6月



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6月

3日、ピアノ四重奏曲第1番K.478に対して、出版契約していたホフマイスターは、むずかし過ぎると文句をつけたため、モーツァルトはその後2曲書く契約を破棄し、2月にできあがっていた をライバルのアルタリアから出版した。 そして第3曲は作曲されなかった。

10日、

を作曲。 2年後に、曲の終りに26小節を付け加え、K.533と合わせて、3楽章から成るピアノ・ソナタにした。

26日、ロイトゲープのために

を作曲。 自筆譜は青、赤、緑、黒のインクで書かれているという。

1786年7月





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7月

8日、 を作曲。 この自筆譜も赤とセピア色の2色で書かれてあるという。

27日、たぶんホルン奏者ロイトゲープのために、「九柱戯」に興じながら

を作曲。 ただし第1、3、6曲の自筆譜のみ残り、楽器編成は不明。

1786年8月

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8月

1日、二重対位法も用いたこの大作 を作曲。 1787年アルタリア社から出された初版は自筆譜と多少異なる部分があるという。 第2楽章の主題がホルン協奏曲K.495第2楽章のそれとよく似ていることが指摘されている。 この曲との関連で、 がある。 その自筆譜は1938年以来行方不明。

5日、友人ジャカンたちと九柱戯の遊びに興じながら

を作った。 彼の家で、モーツァルトがヴィオラ、クラリネットは名手シュタトラー、ピアノはジャカンの妹フランチェスカという受持ちで演奏したのだろう。 「クラリネット三重奏曲」とも呼ばれる。

8日、ドナウエシンゲンのフォン・フュルステンブルク公の侍従セバスチャン・ヴィンターに「自分を宮廷作曲家として採用して欲しい」旨の手紙を送り、見本として次の曲の冒頭主題を書き添えた。 これにも父レオポルトの事前の根回しがあった。

17日、プロシア王フリードリヒ2世没、74歳。 フリードリヒ・ウィルヘルム2世が即位、42歳。 のちにモーツァルトはウィルヘルム2世の求めに応じて弦楽四重奏曲を作ることになる。

この頃、フランスはイギリスとの通商航海条約により深刻な産業危機にみまわれていた。 そしてこれが1789年7月14日の革命へとつながる。

19日、

を作曲。 その目的は不明だが、親しかった出版者F.A.ホフマイスターへの債務を果たすために作曲したらしい。

9月

12日、 を作曲。
新全集では、この頃 を作ったとしている。 第1楽章はホフマイスターの歌曲「自然に寄す」を主題とする変奏曲。

10月

18日、三男ヨハン・トーマス・レオポルト誕生。翌月死亡。

11月

4日、 を作曲。 おそらく借金返済のためにホフマイスター社の依頼に応じて作られたらしい。

15日、三男レオポルト死亡。

17日、父(ザルツブルク)から娘へ

レオポルトは元気でいる! そして私は? 誕生日に下剤を一杯呑んで67歳という年齢を放り出してしまってから少し良くなった。 そして15日にザンクト・ギルゲンへ行きたいという強い誘惑を覚えたが、人間には時には何が薬になるか、分からないものだね。 しかし私だって楽しいことも必要だ。 さもないと、悲しい気持ちに沈んでしまう。 今日、お前の弟に返事を非常にキッパリと書かなければならなかった。 二人の子供を預かって欲しいと申し入れてきたのだ。 謝肉祭にイギリスへ旅行したいためだなどと言う。 ひょっとするとあれの女房が、うまいことを思い付いたという訳だ。 私の断わりははっきりしたもので、教訓に富むものだ。
冒頭のレオポルトとはナンネルの息子。 その赤子を父レオポルトが引き取って育てていた。 それはヴォルフガングに知らされていなかった。 父の誕生日は11月14日。ヴォルフガングは、3歳のカール・トーマスと、生まれて間もないヨハン・トーマス・レオポルトを父に預けて、イギリス旅行を考えていた。ただし実現しなかった。

二人の子供たちが小さかった頃、父レオポルトは弟ヴォルフガングの方にすべてを注ぎ込み、姉ナンネルの方は二の次だった。 しかし成人してヴォルフガンガは父の手の届かない所に行ってしまった。 過去の穴埋めのためもあってか、寂しい父は娘に優しかった。

18日、

を作曲。 第3番K.496の4ヶ月後のこの作品で、弦はピアノと対話する本格的な三重奏曲となって完成。

1786年12月




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12月

4日、冬のシーズンに演奏するために を作曲。 これは6曲の連作(第20〜25番)を閉じるにふさわしい大曲。

6日、同じ目的で

を作曲。 しかし演奏する機会はなく、プラハへの旅行にもって行き、1787年1月19日に初演された。 モーツァルトのシンフォニーが、オペラの添え物でなく、初めて独立した。この曲にはメヌエットがないため「メヌエットなし交響曲」とも呼ばれる。

27日、ナンシー・ストレース嬢に送った恋文といわれる

を作曲。 彼の自作目録には「ストレース嬢と私のために」と記された。 1787年2月23日イギリスに帰る彼女の告別演奏会で、彼女が歌い、モーツァルトがオーケストラと協奏するピアノを弾いた。


1785年8月から1786年8月の間に

を作った。 アトウッドはイギリスのセント・ポール寺院のオルガニストで、1785年8月から1787年2月までモーツァルトの弟子。 モーツァルトにロンドンへの演奏旅行を勧めていた。

1786年6月3日以降、以下のカノンを作ったとされている。


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2001/07/04
Mozart con grazia