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1769年

13歳
1769年1月






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1月

5日、ランバッハを経て、ザルツブルクに帰郷。

14日、ザルツブルク大学教会でのミサのために

を作曲。 ニ短調は彼の作品の中で特殊であり、このミサ曲も感動と悲壮を感じさせる。

26日、ザルツブルクで

を作曲。
1769年2月


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2月

5日、コレギウム教会で、大司教列席のもとにミサが行われ、ミサ・ブレヴィス(ニ短調 K.65)が演奏された。

この頃(または67年)

を作曲。 ザルツブルク大司教フォン・シュラッテンバッハに敬意を表したリチェンツァで、大司教の誕生日2月28日に演奏されたかもしれない。
17679年3月


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3月

モーツァルト一家は1767年9月、皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女)とナポリ・シチリア王フェルディナント1世の婚儀のために催される祭典をめざしてウィーンへ旅立っていた。 運悪く、天然痘が大流行していたためオルミュッツへ避難したが、ヴォルフガングも姉ナンネルも天然痘にかかった。 このときヴォルフガングは一時的に失明し、危険な状態にまでいったらしい。 そのような緊急事態が発生したせいもあり、帰郷が大幅に遅れていた。 しかし、ザルツブルク大司教は「1768年4月中に帰郷しないときは俸給停止」と決定していた。 実はその頃すでにヴォルフガングも姉ナンネルも危機を脱していたが、ウィーンに留まり、ヨーゼフ2世の依頼を受けてオペラ・ブッファ『見てくれのばか娘』(K.51)を作曲していた。 おそらく父レオポルトは周到な根回しでオペラ作曲の機会を与えてもらったつもりだったのだろうが、ウィーンで上演されることはなかった。 結局この年の1月5日にようやくザルツブルクに戻ったが、彼の俸給は1768年3月から停止され、レオポルトは帰郷してから差し止め解除を大司教に請願することになる。

1769年3月
数け月お差し止めの俸給支払い復活につきましてご承認下さいますよう、恐れながら請願申し上げます。
大司教猊下におかせられましては、先ごろ私が家族とともになお数か月ヴィーンに滞在することをお許しくださいましたが、また帰着いたしますまで私の俸給を差し止めるようお命じになりました。 しかしながら、このヴィーン滞留は私の意に反するものであり、かつ私の不利益となるものでありましたため、私は自分および愚息の名誉を守るためにも、より早くヴィーンを立ち去ることができませんでした。
[書簡全集] pp.13-14
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この請願は承認され、1769年1月分から俸給が支給されたという。

5月

1日、ウィーンでは上演できなかった「見てくれの馬鹿娘(ラ・フィンタ・センプリーチェ)」K.46aがザルツブルクの宮廷で初演された。 この日はジギスムント(大司教の名前)の霊名の祝日であることから伝記家ヤーンが推定したものであるが、その後の研究により大司教はハライン(ザルツブルク州の第2の都市)に滞在していたので、この推定には疑問があるという。

オルガニストで作曲家のアードルガッサー(40才)がレオポルト立会のもと宮廷歌手マリア・アンナ・フェーゼマイヤー(26才)と結婚。 このとき少年モーツァルトも列席した。 なお、これはアードルガッサーにとって3回目の結婚だった。 また、フェーゼマイヤー嬢は『ラ・フィンタ・センプリーチェ』でニネッタ役を歌っていた。

8月

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6日、ザルツブルク大学の終業式があり、 が演奏され、その前後に が行進曲として演奏された。 さらに、その日のための「フィナールムジーク」として が作られた。 このときの様子をドミニクス師は日記に次のように記した。
8月6日若いモーツァルトが作曲した論理学部生たちのための終了祝賀音楽があった。 8月8日、同じく物理学部生たちのための終了祝賀音楽があった。
このときの2曲のフィナールムジークは今までニ長調K.62aとト長調K.63と考えられていたが、最近の研究ではこのト長調K.63と次の変ロ長調K.63aと推定されている。

【フィナール・ムジーク】
ザルツブルク特有の音楽ジャンル。 毎年8月大学の学期末に2年間の予備課程を終えた学生により主催された終了式で使われた音楽。 楽士たちは行進曲を奏でながら大司教の夏宮殿のミラベル広場まで練り歩き、そこで大司教のためにセレナードを演奏する。 その後再び行進曲で退出し、大学へ戻り、教授たちのために演奏する。 さらにもう一度行進曲を奏でて楽士たちは退場し、ザルツブルク夏の恒例行事が終る。 学生の感謝と別れの音楽祭だが、市民にとっても楽しみな行事だった。 大学には2つの課程(論理学科と物理学科)があったので、毎年2曲がザルツブルクの有力な作曲家に委嘱された。

ザルツブルク大学(Universität Salzburg)周辺
近くにモーツァルトの生家のあるゲトライデガッセ(Getreidegasse)が見える。 川向こうに(地図では上の方に)ミラベル広場(Mirabellgarten)とミラベル宮(Schloss Mirabell)がある。 また、そのそばにのちに建てられたモーツァルテウム音楽院(Universität Mozarteum Salzburg)も見える。

この夏、ザルツブルクで

を作曲。

この頃、父の手になる自筆譜で

が残ってる。

15日、ナポレオンが生まれる。

9月

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レオポルトはヴォルフガングを音楽の本場イタリアに連れて行く計画を立てていた。 9月には、2回目のウィーン旅行のとき知り合った宮廷作曲家ヨハン・アドルフ・ハッセにそのための推薦状を依頼している。
ハッセはヴェネツィアにいる友人でその地の名士であるオルテス(Giovanni Maria Ortes, 1713-99)に次のように書き送った。
モーツァルトという人と知り合いになりました。 仲々賢く、センスと教養のある人です。
・・・
まだほんの12か13才の息子は既に作曲家であり、楽長と言える程です。 彼のものだという作曲をいくつか見ました。 事実仲々のものです。 12才の少年のものとは思えないものがありました。 私は彼をクラヴィーアで様々に試してみましたから、その曲が彼のものであることは間違いありません。
・・・
父親は息子をそちらで名を挙げさせるためにイタリアへ連れて行く積もりでいます。
・・・
父親が息子を余りにほめすぎて甘やかしたり無理な教育をしなければ。 それが唯一心配ですが。
[ドイッチュ&アイブル] p.81
年末にモーツァルト父子はいよいよイタリアに出て行く。 そして行く先々で少年モーツァルトは華々しい成果を上げ、父レオポルトは数々の自慢話をザルツブルクに書き送る。 それらは事実であろうが、しかし実際のところはどうだったのだろうか? オルテスがのちに(1771年3月2日)ハッセに送った返信を読むと、考えさせられるものがある。
しかし、彼らがこの都会に大いに満足したとは私は思いません。 これはよそでも彼らに起こることでしょうが、この都会では彼らが他人に求めるところがある以上に、他人のほうが彼らから得ようとしていることが分かったことでしょう。
・・・
少年がこうした相違点を楽しんでいるゆとりをもっているのにひかえ、父親のほうはそれにいささか神経をとがらせているのは奇妙なことです。
[書簡全集 II] pp.264-265

10月

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ザルツブルクのモーツァルト家の家主ハーゲナウアーの4男、新任司祭ドミニクス(カイェタン・ルーペルト・ハーゲナウア)のために

を作曲。 幼なじみのカイェタンは1764年に修道院に入り、このとき新任司祭として初めてミサを行うことになった。 他のミサと違い、友情溢れる作品に仕上げた。管楽器を多く入れて音を豊かにしている。

15日、「ドミニクス・ミサ」初演。評判がよく、その後も各地でのミサに使われたという。
ドミニクス師は日記に初演のときの様子を

今日、初ミサを行った。 ミサの音楽は14歳の少年モーツァルトによって作曲されたものだが、皆の意見ではまことに美しいものだった。 ミサは2時間以上続いたが、これは供犠が多大だったからで、献金は656フローリン55クロイツァーもあった。 食事は12時に行われた。 それからヴォルフガング・モーツァルト氏は半時間も大オルガンを弾いて、一座の者を驚嘆させた。
と書いている。
1769年11月


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11月

この頃、ザルツブルクで、 を作曲。 ミハエル・ハイドンの作を模倣し、父レオポルトが添削したという。

27日、ヴォルフガングはザルツブルク宮廷楽団の第3ヴァイオリン奏者(無給)に任命された。 さらにイタリア旅行の許可も降りて、旅費(120ドゥカーテン=600グルテン)が支給された。

28日、イギリスの法学者バリントン卿 Daines Barrington が自然科学者の目から見た神童モーツァルトを記述した論文が英国学士院「哲学紀要」に受理された。 この紀要は1771年6月に出版された。
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12月

13日、父に連れられて初めてのイタリアへの旅に出た。

15日、インスブルック着。 泊った宿は「ツム・ヴァイセン・クロイツ(白十字館)」という現存する旅館。 そこでウォルフガングはザルツブルクにいる母へ手紙を書いた。

何もかも楽しいことばかりで、僕はもうすっかり有頂天です。 だって、この旅はとても面白いからです。馬車の中はとても暖かいからです。 御者は愛想のいい人で、道がちょっとでもいいと、とても速く走らせるからです。 道中のことはパパからもうママにお知らせしたでしょう。 僕がママに書くわけは、僕が深く深く尊敬しているママに、なすべきことをちゃんとわきまえていることを、見てもらうためです。では、さようなら。

17日、ティロル州副議長キューニグル伯爵邸で音楽会。

19日、インスブルックを出発。ブレンナー峠を越えてイタリアへ。

24日、ロヴェレート着。4日間滞在。 トデスキ男爵邸で音楽会を催したり、教会でオルガンを弾いたり、ここでも神童は人々の度肝を抜いた。

26日、ロヴェレートのサンマルコ教会でオルガンを演奏。

27日、ヴェロナ着。宿は「2つの塔館」で、年を越す。

27日から翌年1月6日以前の間(ヴェロナ)

を作曲。 ヴェロナでの彼のパトロンであるピエトロ・ルジアティが命じて書かせた彼の肖像画が残っている。 その画にこの曲の楽譜が描かれている。 この肖像画は1月6〜7日の間に、サヴェーリオ・ダッラ・ローサ(以前はジャン・ベッティーノ・チニャローニの作とされていた)によって描かれた。 したがってこの曲の成立はそれ以前で、しかもヴェロナ到着以後と推定される。

アインシュタインによれば、次の曲はこの年に位置づけされている。

69年終か70年初、ザルツブルクかイタリアで を作曲。 メタスタージオ詞「デモフォンテ」第1幕から。 作曲の目的は不明。

この年、ザルツブルクで

が作曲されたかもしれない。 作詞者や作曲の目的は不明。1960年代にプラートにより発見。

69年終、ザルツブルクで

が作曲されたかもしれない。 自筆譜の表紙に、レオポルトのらしい筆跡で1769年とあるので、ケッヘルはK.73として整理したが、アインシュタインは第3版で1771年の作としてK.75aを与えた。 現在の第6版ではもとの1769年説を支持している。 そうすればK.63前後の番号になる。


参考文献


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2012/06/03
Mozart con grazia