Mozart con grazia > 年代記 >
17
age
61
5
62
6
63
7
64
8
65
9
66
10
67
11
68
12
69
13
70
14
71
15
72
16
73
17
74
18
75
19
76
20
77
21
78
22
79
23

80
24
81
25
82
26
83
27
84
28
85
29
86
30
87
31
88
32
89
33
90
34
91
35
92

1779年

23歳

1779年1月




123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

1月

7日、 パリで印刷した「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ K.301〜306」(通称マンハイム・ソナタ集)を選帝侯カール・テオドールの妻マリア・エリーザベトに献呈した。

8日、ミュンヘンから父へ

僕が楽しみにしているのは、ザルツブルクへ行くことではなく、お父さんのところへ行くことです。 僕はザルツブルクとその住民が我慢なりません。あの言葉や生活態度が、たまらないのです。 僕のベーズレがここに来ています。なぜかは誰でも知っていることですが、それはザルツブルクで話します。 そのために、ベーズレが一緒にザルツブルクへ行ってくれることを切に願っています。 あの人にお会いになったら、きっと気に入るでしょう。
従姉妹のベーズレがミュンヘンで果たした「重大な役割」とは何か? モーツァルトの願いを容れて、ザルツブルクまで足を伸ばした。 彼に同行したのか、後から行ったのか、分からない。

13日、ミュンヘンを去る。

15日、モーツァルトは否応なしにザルツブルクに戻った。

大司教への請願書

いと尊く慈悲深き神聖ローマ帝国領主にして国王閣下。慈悲をもちまして私を宮廷オルガニストに任命していただきたく、最も深き臣従をもってお願い申し上げます。
モーツァルトの署名(Wolfgang Amade Mozart)がなされているが、この請願書は彼がザルツブルクに到着する前に、父レオポルトによって書かれたものだという。 さらにレオポルトは大司教の妹、マリア・フランツィスカ・ヴァリス伯爵夫人の援助も受けたという。 用意周到な根回しのお陰で、大司教からすぐ決済がなされ、アードルガッサー(1777年末に没)の後任として、ザルツブルク宮廷オルガン奏者に任命された。 年俸450グルテン。 これは前任者と同額。

25日、大司教の決済(17日付け)

余は請願人を慈悲をもって任命する。 決められた職務を行い、礼拝堂において不平なく勤め、宮廷と教会にできる限り新しい作品で仕えよ。

失意のうちに帰郷し、嫌悪しっきていた大司教の従僕に戻されたにもかかわらず、オカールの言葉によれば、

あれほど多くの失望のあとでは、悲壮で引きつった音楽が出て来て当然だろうと人は思う。 しかし驚くべきことに、そんなものは一つも見られない。
ここにもモーツァルトの音楽を聴く者が心得ておかなければならない秘密の鍵がある。
また、父のもとにいるために手紙を書く必要もなかった。モーツァルトの心情を知る手がかりは曲そのものにしかない。 刺激の乏しい地方都市に閉じ込められ、聴く耳を持たない尊大な田舎貴族たちに囲まれ、「ここではイスやテーブルに聴かせているようなものです」と言いながらも、後のウィーン時代の作品を思わせる傑作を残す。

この年の初め、ザルツブルクの父の家で行われていた音楽会用に、2台のピアノのための

を作曲。 彼自身と姉のためにと推定されている。
なお、この曲は1781年11月23日アウエルンハンマー邸でヨゼファ嬢と共演、さらに1782年5月26日第1回アウガルテン演奏会でも同嬢と共演する。

1779年3月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031



3月

27日、ザルツブルク大聖堂で行われた復活祭の式典のために を作曲。 また、 を作曲したのもこの頃らしい。

1779年4月



1234
567891011
12131415161718
19202122232425
2627282930

1779年5月





12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31





4月

26日 を作曲。 5月23日の演奏会のためか。

5月

10日ベーズレこと、マリア・アンナ・テークラへ
君の心とろかす似姿は、おお、かわいい従妹よ、いつも僕の枕元にただよう。 けれど悲しい涙を誘うのは、それが君自身でないからさ。 たそがれ迫り、月が輝くころ、いつもそれを眺めて、泣きます。 次の手紙ではもっとたくさん本当にまともなことを書きます。 ごきげんよう、さようなら、天使さん。

23日、ザルツブルクで演奏会。交響曲で始まった。

7月

9日 を作曲。 その動機は不明。ミュンヘン、マンハイム、パリと旅行して、優れた楽団に接したことによる成果があるという。

8月

3日、ザルツブルク帰郷後の唯一の本格的なオーケストラ作品と言われる を作曲。 このセレナーデはオーケストラにとっては冗談のようなポストホルンの使用とともに、この曲を満たしているある種の憂愁が謎。 アインシュタインによると、ポストホルンという珍しいラッパの起用は、大司教と別れて旅に出たいという心をユーモラスに象徴したものという。

このセレナーデ用に

を作曲。 また、この頃、ザルツブルクの富豪ロビニッヒ夫人ヴィクトリアの依頼で を作曲したらしい。 さらに、 もこの頃の作と見られている。

9月

この頃、ザルツブルクで3つの宗教曲 を作曲したと思われる。

ウェーバー家はウィーンに引越した。

1779年10月




123
45678910
11121314151617
18192021222324
25262728293031

10月

23日、フリードリン・ウェーバー氏が死去し、母子家庭となる。

この年から翌年にかけて、ザルツブルクで、のちの「魔笛」と「後宮からの逃走」の先行作と見られている劇音楽を作曲した。 前者は、シカネーダーからの依頼を受けた

であり、後者はザルツブルクに来演中のベーム劇団のための である。 ただし前者の初稿は1773年には既にウィーンで2曲の合唱と5曲の間奏曲を作っていた。


Home K.1- K.100- K.200- K.300- K.400- K.500- K.600- App.K Catalog

2000/09/16
Mozart con grazia