Mozart con grazia > アリア
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アリア「もし私の唇を信じないなら」 K.295

Aria "Se al labbro mio non credi"
〔編成〕 T, 2 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1778年2月27日 マンハイム
1778年2月






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ザルツブルクという地方都市の狭い世界に閉じこめられ、悶々としていたモーツァルトは意を決して、前年9月23日、母と二人でザルツブルクを出発していた。 就職活動のためにパリを目指しての旅であったが、途中、マンハイムでアロイジアに恋し、その地の宮廷楽団に就職しようと考えていた。 それはザルツブルクから息子の行方を遠隔操縦していた父レオポルトにとって、思いもよらない道草であった。 「パリへ立て! 今すぐに」と叱りとばすレオポルトと、「あたかも快い白昼夢を紡いでいるような」息子ヴォルフガングとの間に立って、母マリア・アンナの気苦労は計り知れない。 マンハイムでの一部始終を父に見透かされ、かつてないほどの厳しい父の言葉に狼狽する若きモーツァルトの姿が、この頃の往復書簡に赤裸々に現れている。

もともとレオポルトの腹づもりでは、ヴォルフガングはマンハイムの宮廷楽士たちと一緒にパリに発たせ、その時点で母親一人をザルツブルクに戻す予定だった。 しかし、息子が恋にのぼせていると気がつくや、直ちに母親と一緒にパリへ発てと厳令したのであった。
[ランドン] p.24
しかしこの頃はまだ、モーツァルトには父から独立するだけの強い自立心が育っていなかった。 彼はアロイジアへの恋心を押さえてマンハイムを旅立つが、その2週間前に父に宛てた手紙(2月28日)の中に、この曲の成立が次のように書かれている。
きのう、ラーフのところへ行き、ぼくが最近彼のために書き上げたアリアを一曲届けました。 歌詞は「わが美しき敵よ、私の唇を信じないならば」云々で、このテキストはメタスタージョのものではないとぼくは思います。
・・・
ぼくはバッハによって実にすばらしく作曲されている「どこから来たのかわしにはわからない」云々のアリアも、練習のために書きました。
・・・
このアリアは、初め、ラーフのために書いたのですが、その冒頭部はラーフには高すぎるとすぐ気づきました。 ・・・ そこで、このアリアはヴェーバー嬢のために書こうと決めました。 さて、この曲はいったん置いておいて、すぐラーフのために「私の唇を云々」のテキストに向いました。
[書簡全集 III] pp.562-563
このように、アリア「どこからこの愛情が来るのか」(K.294)をアロイジアに回してしまったので、その代わりにこの曲をアントン・ラーフ(当時64歳)のために作ったのである。 メタスタージォ詞「アルタセルセ」(ハッセ作曲)の代替アリアであるが、モーツァルトが作った曲の歌詞は別人のもので、たぶんサルヴィ(Antonio Salvi, 1664?-1724?)と考えられている。 オペラはペルシャ王セルセが暗殺され、王子アルタセルセが即位するまでの物語であるが、この曲はその第2幕第14場で、王セルセ暗殺の罪で投獄されたアルバーチェが王子の妹であり恋人のマンダーネに対して歌うアリアである。 モーツァルトは8年前に(14歳のとき)このオペラの第2幕第11場で歌われるアルバーチェのアリア「この父の抱擁ゆえに」(K.79)を既に書いたことがあった。

ところで、上記の手紙には非常に興味深いことが書かれていることでもよく知られている。 すなわち、ラーフがその同じ歌詞によるアリアを既に持っていることを知っていたモーツァルトは、わざとそのテキストを選び、そうすることでラーフが「気を入れて歌う」ことを予想していたのである。 その上で、モーツァルトは「曲が気に入るかどうかを率直に言ってくれれば、書き換えてもいいし、別の曲を作ってもいい」とラーフに言ったのであった。 そのときの二人のやりとりが手紙の中に生き生きと書かれている。

「とんでもない」と彼は言いました。
「実に美しいから、このアリアはこのままにしておくべきです。 ただ、少し短くしてもらえませんか、いまはもう声を持続することがむつかしいので。」
「よろこんで、あなたのお望み通りにしましょう。 ぼくはわざわざ長目に作ったんです。 縮めるのはいつだってできますが、つけ加えるのは容易じゃありませんからね」とぼくは答えました。
ほかの部分を歌ったあと、彼は眼鏡をはずし、大きな目をむいてぼくを見つめ、こう言いました。
「みごと、みごと! こりゃすばらしい第二部だ。」
そして彼は三回それを歌いました。
[書簡全集 III] p.563
続けて、モーツァルトは誇らしげに父に伝えている。
彼がよろこんで歌えるようにアリアを直しましょうと請け合いました。 なぜって、ぼくは、よく仕上がった服のように、アリアが歌い手にぴったりと合うのが好きですからね。
このようなやりとりで、かつて名声を誇ったテノール歌手のためのアリアが作られたのである。
すでに老境に入ったラーフの喉を考慮して、高音を抑え、テンポもアダージョをとり、中間部の第2幕はアレグレット、ト短調と主部の変ロ長調とは対比的な部を形づくっている。 渋いが印象的なアリアではある。
[海老沢] p.217
そしてこれは、モーツァルトが演奏者の力量に合った作曲をしていたこと、その結果として自分が演奏する場合には難しい曲を書いていたという定説を裏付けるエピソードとして有名である。 だからこそ、もっと優れた演奏者との出会いがあれば、もっと良い作品を書いただろうにと、残念な気持ちにもなる。 しかし、この曲の場合、アインシュタインが次のように述べていることですべて言い尽くされている。
モーツァルトは彼の歌手や演奏家たちを思い浮かべることによって、束縛されたどころか、逆に翼を与えられたのである。 こうしてこのアリアはわれわれにとって、ある古い文献(リポウスキー『バイエルン音楽辞典』)が伝えているように、「老年の日々にありながら、いまだに感情と人を魅するような優雅をこめて歌った」有名な老テノール歌手の声と演奏との完璧な肖像画になったのである。 それは十度の音域内に収められた、完全で安らかで抒情的なカンタービレ的本質である。
[アインシュタイン] p.495
蛇足ながら、自筆譜にはラーフの要望を受けてモーツァルトが変更や削除をした箇所が多くあり、それを元に最初の形を再現することは可能だという。

〔詩〕
  Se al labbro mio non credi,
cara nemica mia,
aprimi il petto e vedi,
qual sia l'amante cor.
Il cor dolente e afflitto,
ma d'ogni colpa privo,
se pur non e delitto,
un innocente ardor.
  もし私の唇を信じないなら、
いとしい私の敵よ、
私に胸を開いて、ごらん、
愛する心がどんなものかを。
悩み苦しむ心だが、
どんな罪も犯してはいないのだ。
もし汚れない情熱が
罪ではないとしたら。
 
海老沢敏訳 CD[VJCC-2309]

〔演奏〕
CD [VJCC-2309] t=14'11
プレガーディエン Christoph Pregardien (T), クイケン指揮 Sigiswald Kuijken (cond), ラ・プティット・バンド La Petite Bande
1988年3月、オランダ、Haarlem
CD [Brilliant Classics 93408/3] t=10'01
Marcel Reijans (T), Wilhelm Keitel (cond), European Chamber Orchestra
2002年6月、ドイツ、バイロイト劇場

〔動画〕

 

〔参考文献〕

 

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2013/06/23
Mozart con grazia