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2つの田園舞曲 K.603

  1. Andante ニ長調
  2. Allegro 変ロ長調
〔編成〕 picc, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, vc, bs
〔作曲〕 1791年2月5日 ウィーン

1787年末にモーツァルトは、ウィーン宮廷の侍従長フォン・ローゼンベルク伯爵(Franz Xaver Wolf Graf Rosenberg-Orsini, 1723-96)の上申書に基づき、「ローマ帝国皇帝にしてハンガリー、ボヘミア王、オーストリア大公」ヨーゼフ2世(1790年2月没)の特別の慈悲による計らいで宮廷音楽家に採用が決まったが、彼の仕事は、よく知られているように、宮廷舞踏会用のダンス音楽を作ることだった。

ウィーン宮廷が決まった時期に、しかも多量に必要とした音楽のジャンルの一つに、謝肉祭の折に王宮の大小のホールで催される宮廷舞踏会のための舞曲があった。 1791年の舞踏会は、主の御公現の祝日(1月6日)に始まった。
[ランドン] pp.61-62
1791年2月

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この曲はこのような目的で、1791年2月に作曲された舞曲の一つである。 自作目録に2月5日の日付でこの曲が記載されているが、同じ日に「4つのメヌエット K.601」と「4つのドイツ舞曲 K.602」の2曲も書かれている。 もちろんそれだけの仕事で彼が満足だったわけでもなく、前年(1790年)始めに
大公殿下の慈悲深き御心にすがり私の最も忠実臣従なる御願いに関し慈悲深き申し添えをいただきたく伏してお願い申し上げます。 名声を求める熱意から、仕事への愛から、私の知識への確信から敢えて第二楽長の地位を求める次第です。 特に有能な楽長サリエリ氏が教会様式に関して何もなさっていないだけに尚更であります。 私は若い頃からその様式に私なりに身を捧げてきました。 私はピアノ・フォルテの演奏で世に些かの名声を得て参りましたが、殿下の慈悲をもちまして私に殿下の楽団の音楽上の指導をお任せいただきたく敢えてお願い申し上げます。
[ドイッチュ&アイブル] p.233
と書いているように、もっと大きな仕事を望んでいた。 具体的には宮廷楽長の座を望んでいたのである。 しかも1791年と言えば、それはモーツァルトの最後の年であり、たとえば1月5日に作られたピアノ協奏曲変ロ長調(K.595)もそうであるように、「最後の何々」と呼ばれる作品が並んでいる。 モーツァルト自身がダンス好きだったし、舞踏会用のメヌエットやドイツ舞曲の作曲を軽視したり、嫌々ながらに手抜きをして作曲したりというわけではなかったが、もしこのとき彼がもっと大きな仕事でその稀有の才能を生かしていたなら、後世にとってどれだけ良かったことか。 ところが、これもよく知られているように、ウィーンでのモーツァルトの人気は下火となっていて、したがって大きな仕事の機会もなかった。 いずれにしても、この時期には宮廷は舞曲を必要としていて、モーツァルトは最後の年のこの短期間に10曲以上を作曲している。
1791年のモーツァルトの『全自作品目録』には一連のメヌエットとドイツ舞曲が載っている。 このような舞曲はもちろん「その場かぎりのもの」だが、モーツァルトはとりわけオーケストレーションに関して、大規模な器楽作品を扱うのと同じ手間を惜しまず、慎重に扱っているのは明らかである。
[ランドン] p.63
だが、やはり残された時間がほとんどなくなっていたことを考えると、ロビンス・ランドンの次の言葉が重く響く。
1791年最初の三カ月間に、モーツァルトが作曲した作品リストを調べると、交響曲、四重奏曲、五重奏曲、ミサ曲、オペラなどがないのは──もっとはっきり言えば、ピアノ協奏曲以外には大きな形式はなにもない──、不思議で、淋しい気がする。 いくら素晴らしい曲であるにしても、ウィーン宮廷はおかかえの宮廷作曲家に、メヌエットやドイツ舞曲しか期待しなかったのだろうか? モーツァルトの胸にも、いささかそんな欲求不満はあった。 ニッセンの伝記には、このような舞曲の領収書(現在紛失)について述べてあるが、モーツァルトはその紙片に「私が書いた曲に対しては多すぎるが、私がしようと思えばできたことに対しては十分でない」と書いた。 またとない音楽の天才をこんな無駄な使い方をしたとは、驚きどころか嘆かわしい限りである。
[ランドン] pp.70-71
第1番は普通のコントルダンス(4分の2拍子)だが、第2番は16小節づつ2部に分かれ、前半はコントルダンス(4分の2拍子)、後半はメヌエット風(4分の3拍子)という構成になっている。

余談であるが、ピアノ協奏曲変ロ長調(K.595)は3月4日にヤーン邸での演奏会でモーツァルト自身により演奏された。 それは彼が公開の音楽会で演奏した最後の姿となった。

〔演奏〕
CD [キング KICC 6039-46] t=2'07
ボスコフスキー指揮ウィーン・モーツァルト合奏団
1965年
CD [CRCB-3011] t=14'24
ハーゼルベック指揮ウィーン・アカデミー合奏団
1990年1月、オーストリア、アイゼンシュタット
※11曲のコントルダンスと合わせて
CD [COCO-78048] t=2'55
グラーフ指揮ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団
1990年5月、ザルツブルク

〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=dltVBV7WLcM] t=2'16
演奏不明

〔参考文献〕

 

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2012/03/31
Mozart con grazia