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交響曲 第6番 ヘ長調 K.43

  1. Allegro ヘ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante ハ長調 2/4 ソナタ形式
  3. Menuetto ヘ長調 3/4 複合3部形式
  4. Allegro ヘ長調 6/8 ソナタ形式
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 hr, 2 vn, 2 va, bs
〔作曲〕 1767年秋〜12月15日 ウィーン、オールミュッツ
1767年9月

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フルートの使用は第2楽章でのみ。 モーツァルトにとってメヌエットを含む最初の4楽章構成の交響曲。

1767年の秋、ウィーンに滞在している時、ここでヴォルフガングは、ハイドン、ディッタースドルフ、レオポルト・ホフマンといった作曲家の最新のオーケストラ・シンフォニーを直接学ぶことができた。 彼らの作った実験的で大胆な作品群は、長くモーツァルトの頭に印象づけられることになる。 ヴォルフガングはこの時、3曲または4曲(K43、K45K48に、K17=Anh.C11.02という整理の手違いの疑いのある作品)のシンフォニーを書いた。 ここでも少年の腕は、巨匠の作品にはとても及ばない。 しかし、それらの曲は生き生きとした作品で、将来が約束されている。
[ランドン] p.165
自筆譜の表紙に「1767年ウィーンにて」とあり、その上に父レオポルトの手で「オルミュツにて」と書かれてあったが後に線を引いて抹消されたという。 用紙はザルツブルクのものであるため、ウィーンにたつ前に、ザルツブルクで夏頃から作曲を始めてていた可能性もあるという。 しかし「一家の旅行の際には用紙が携行されたであろうから、この考え方も絶対ではない」とザスローは否定的である。 これまでの交響曲で成立が明確なものはどれも3楽章構成であることや、この曲が当時のウィーンの作曲家たちが交響曲楽章を開始するために用いたファンファーレとほぼ同一のもので始まることなどから、ザスローは次のように説明している。
この交響曲は、1767年9月15日から10月23日の間にヴィーンで(9月13日前にザルツブルクで、という可能性もあるが)着手され、ヴォルフガングが天然痘から回復した後、オロモウツで完成された。 オロモウツでの作業は、改訂ないし再筆写と呼ぶべきものであったかもしれない。 曲は12月30日にブルノで、おそらく初演された。
[全作品事典] p.214
第2楽章はラテン語劇『アポロとヒアキントス』(K.38)の第8曲の二重唱が転用されている。 ただしザスローは、ここで少年モーツァルトは「歌詞にある気がかりや喪失といった意味合よりも懇願のムードに焦点を当て、ほとんど崇高なまでに清澄な楽章を作り出した」といい
そのための道具立ては、ここでは別の調性(ハ長調)、オーボエに代わるフルートの使用、第1ヴァイオリンへの弱音器、第2ヴァイオリンと低音楽器のピッツィカート、分割されたヴィオラによる16分音符のつぶやき、などである。
と、幼いながらも情感あふれるアンダンテを仕立て上げた腕前を高く評価している。 なお彼によれば、第4楽章は「2つの部分が反復される2部形式」である。

ざっと振り返ると、9月11日、皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女)とナポリ・シチリア王フェルディナント1世の婚儀のために催される祭典をめざして、モーツァルト一家はウィーンへ旅立ち、15日に到着した。 ところが、この頃ウィーンでは天然痘が大流行していて、10月15日に皇女ヨゼファが天然痘で死亡した。 モーツァルトは王女ヨゼファのために二重唱「ああ、なんたる知らせか」(K.Anh.24a / K.43a)を作ろうとしたが、それは断片に終った。 そして、天然痘を避けて一家はウィーンを出発、チェコに向かって北上。 10月26日、オルミュッツ(オロモウツ)に着いていたのであった。 しかし、まずヴォルフガングが、次に姉ナンネルも天然痘にかかり、かなり危険な状態にまで至った。 そんな中でこの曲が作曲されたとは考えにくいので、天然痘から回復してから完成したのだろう。
1767年12月

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父レオポルトがオルミュッツから郷里ザルツブルクのハーゲナウアーに宛てた手紙では、11月10日にヴォルフガングが、そして11月29日にナンネルが「幸運にも天然痘に打ち克ちました!」と報告されている。

子供たちの体力が旅行に堪えうるまで回復するのを待ち、旅支度を整えて、本来の目的地であるウィーンに戻らなければならない。 冬の時期に家族が安全にウィーンまで旅行するには約100フローリンかかるとレオポルトは見積もっていた。 オルミュッツを離れた日ははっきりしないが、たぶん12月23日だったと思われる。 ほぼ中間地点に位置するブリュン(ブルノ)に12月24日に到着、そこで2週間滞在。 当地の貴族の厚い持て成しを受けつつ、音楽会を催した。 旅行資金集めの目的もあったのであろう。

シュテルンベルク司教座聖堂主席司祭アウレリウス・アウグスティヌスの日記より
ブリュン、1767年12月30日
夕方私は尊き管区長よりタヴェルナという名の市内のある館へ招待された。 そこである音楽会に出くわした。 ザルツブルク出の11才の少年とその15才の姉がブリュンの音楽家達の伴奏でクラヴィーアの演奏をして皆の賛辞を受けていた。 彼等は様々な楽器の伴奏を受けたのだが、少年はトランペット吹き達には到々がまんできなかった。 彼等は互いに音程が狂っていたからである。
[ドイッチュ&アイブル] p.67
この演奏会のときこの交響曲が初演された可能性があるというのである。 2週間の滞在中に音楽会がこの一度だけだったのだろうか。 記録が残っていないだけで、モーツァルト姉弟の見事な演奏を披露する機会はもっとあったと考えることもできる。 ウィーンを脱出し、オルミュッツに向けて一家が避難した際も途中でこのブリュンを経由していた。 それは10月23日(金)にウィーンを出て、翌24日(土)にここに到着したのだったが、帰りに音楽会を催す約束をしてレオポルトは旅を急ぎ、26日(月)にオルミュッツに向かっていた。
私はヴォルフガングと連れ立って、フォン・シュラッテンバッハ伯爵閣下とフォン・ヘルベルシュタイン伯爵夫人に敬意を表すべく、訪問をいたしました。 子供たちの演奏を聴いてもらう音楽会の話があり、しかも実際万事打ち合せたのです。 ところが私の心のなかには、頭から追い払うことができない気持があって、それがすぐオルミュッツに旅をつづけ、ブリュンの音楽会は帰りの折にすべきだというわけで、同じ日曜日の晩に、私は閣下になおこのことについての私の考えを申し述べましたが、閣下も、そのときまでには、まだ田舎にいる貴族たちが全部都会(まち)に帰っているだろうから、それはよい考えだとおっしゃいました。 そこでまた急いで荷造りをしまして、月曜日の26日にはオルミュッツに向いました。
[書簡全集 I] p.302
オルミュッツからの帰途、ブリュンの貴族たちはモーツァルト一家の到着を歓迎し、奇跡的に天然痘に打ち克った二人の子供たちの演奏を一目見ようと引っ張り凧になったと考えるのが自然である。 その結果ブリュン滞在が2週間に及び、大小いくつかの音楽会が行われ、レオポルトの懐を潤したと考えられ、そのような機会にもこの曲が演奏されたかもしれない。 ただし何の確証もない、あくまでも想像である。

ブリュンを出発したのは翌1768年1月9日だったが、記録的な大雪に馬車が立ち往生するなど難儀しつつ、10日にウィーン着。 天候は12日から回復したが、ウィーン市内から大量の雪を郊外に運び出したにもかかわらず、至る所にぬかるみや水たまりができていたという。

余談であるが、このあとレオポルトはザルツブルク帰郷を可能な限り引き延ばし、精力的に息子の売り込みを模索する。 その間のモーツァルトを取り巻く様々な状況についてはオペラ・ブッファ『見てくれのばか娘』(K.51)のページを参照のこと。 モーツァルト一家のウィーン滞在は大幅に延長され、万策尽きる形で帰路につくのはまる1年たった年末となり、ザルツブルクに戻ったのは翌1769年1月5日であった。 あまりにも遅れてしまった帰郷のためレオポルトの俸給は1768年3月から停止され、彼は差し止め解除を大司教に請願することになる。 実りのないウィーン旅行はこうして終った。

〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20361] t=16'58
ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music
1978年頃、ロンドン
CD [COCO-78044] t=13'36
グラーフ指揮 Hans Graf (cond), ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団 Salzburg Mozarteum Orchestra
1988年頃
CD [Membran 203300} t=9'59
Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino
演奏年不明

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2012/12/16
Mozart con grazia