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キリエ 変ホ長調 K.322 (296a)

  • Largo 断片 34小節
〔編成〕 S, A, T, B, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, bs, og
〔作曲〕 1778年か79年 マンハイム?

  テオドール選帝侯
1777年9月23日、21歳のモーツァルトは母と二人で就職活動のためザルツブルクを出発し、パリを目指した。 しかし、よく知られているように、なかなか目的地に急ぐようすがなく、10月30日、マンハイムに到着すると、そこに4ヶ月半滞在する。 親しくなったカンナビヒラーフの勧めで、テオドール選帝侯のためにミサ曲を作りかけていたことが父への手紙で知られている。
1777年12月10日
もう寝なくてはなりません。 二カ月も書きつづけられるくらいなのですが。 協奏曲を三つ、四重奏曲を二つ、ピアノ二重奏を四つか六つ、それから新しい大ミサを作って選帝侯に献呈することも考えています。 アディウ・・・
[手紙] p.104
ただし、その機会がないまま、時間が過ぎて行った。 翌1778年2月14日の手紙では「選帝侯がマンハイムにいてくれれば、すぐに仕上げる」と書いている。 それに対して、父レオポルトは「おまえがマンハイムでそんなにたくさん他人のためにやることがなかったら、仕上げられただろうし、私に送ってくれることもできたろう」(5月28日)と皮肉り、寝言のようなことを言ってる暇があれば、仕事をさっさと片付け、パリに向ってすぐに立つことを命じていた。 しかし、モーツァルトは作品のための作品作りをするタイプではなく、必要があれば(相手が若い女性なら張り切って)作曲するタイプであったので、選帝侯に献呈する機会がなければ、仕上げる必要もないと思ったのであろう。 このようにして、このミサ曲はキリエだけで未完成に終ったと見られている。 ザルツブルク大司教の制限から離れて、ヴィオラも加わった楽器編成で大きく豪華であるだけに、完成されなかったのは残念である。 アインシュタインは次のようにこの断片の計り知れない価値を認めている。
この曲は『魔笛』を思わせるが、それは荘重な調性のためばかりではない。 このミサ曲の残余の楽曲のうちでは、サンクトゥスかベネディクトゥスの冒頭だけが保存されている。 われわれはこのキュリエを知っているからこそ、イグナーツ・ホルツバウアーの或るミセレーレにつけ加えて作曲された8曲(パリ、1778年3月〜4月、K.Anh.1)の紛失を特別に惜しむのである。 なぜなら、モーツァルトはホルツバウアーの非常に厳格な様式に合わせると同時に、それを凌駕しようと努力したにちがいないからである。
[アインシュタイン] pp.461-462
幻のミサ曲の一部だったかもしれないこの断片に対して、モーツァルトの死後、たぶんコンスタンツェの依頼により、M.シュタトラーが10小節補筆し完成させた。 また、従来は別の曲と考えられていた を新全集はこのキリエと同一のものとしている。

〔演奏〕
CD [PHILIPS 422 749-2〜753-2] t=4'25
シェレンベルガーエルンスト (S), ローズマリー・ラング (A), 他, ケーゲル指揮ライプツィヒ放送交響楽団
1990年5月、ライプツィヒ
※下と同じ
CD [UCCP-4083] t=4'25
※上と同じ
CD [WPCS-4566] t=3'11
アルノルト・シェーンベルク合唱団, アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
1992年2月、ウィーン

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2015/04/05
Mozart con grazia