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■作曲 1778年3月か4月 パリ
1778年4月5日、パリから故郷に宛てた手紙によれば、復活祭の前の週に、コンセール・スピリチュエルでミゼレーレを上演することになった。 そのため、支配人のルグロは(モーツァルトを介して?)マンハイム宮廷楽長ホルツバウアー(67歳)の「ミゼレーレ」を取り寄せた。 ところが、マンハイムのコーラスに比べて(モーツァルトの皮肉を含んだ言葉によれば)「強力で優秀なパリのコーラス」では合唱曲がまったく効果が上がらないということで、ルグロはモーツァルトに別の合唱曲の作曲を依頼した。 それに応じて以下の8曲を作ったことが分かっている。 (「モーツァルト書簡全集 IV」(白水社)p.23 参照)
1778年5月1日、パリ
ところで、コンセール・スピリテュエルのことをお話ししなくてはなりません。 ついでに手みじかに申し上げますが、ぼくの合唱曲は、言ってみれば、骨折り損でした。 ホルツバウアーの「ミゼレーレ」はともかく長くて、人気がありませんでした。 そのためぼくの合唱曲も4つでなく2つしかやれず、したがっていちばん良いのが抜かされました。 でもそれは大したことではありません。 その中にぼくのも加わっているのを知っていた人は多くありませんし、大抵の人はぼくのことなんか全然知らないのです。 もっとも、練習のときは大喝采でした。 ぼく自身−−パリで賞められるなんて当てにしてなかったので−−ぼくの合唱曲に大いに満足でした。
柴田治三郎「モーツァルトの手紙(上)」岩波文庫 p.147
◆◆ 余談
モーツァルトはルグロにただで利用されただけに終り、しかも作品も失われてしまった。
もとのホルツバウアーの「ミゼレーレ」も紛失。
そもそもルグロがモーツァルトに作曲依頼したのは、「田舎から都会に出て来た若造だから、ただで使える」とでも考えたのだろう。
それに、自分の家でクラヴィーアを使わせ、食事もさせているんだから、このくらいの作業をしてもらって当然と思っていたかもしれない。
上記4月5日の手紙で、母マリア・アンナが書いているところを読んでみよう。
一日じゅう、ひとりっきりで部屋のなかに坐っていますが、まるで牢屋にでも入れられているみたいです。 おまけにとっても暗くて、小さな中庭に面しているだけなので、一日じゅうお日さまが見られませんし、お天気がどうなのかも分かりません。 わずかに差し込んでくる光で、やっとの思いでなにかちょっとしたものを編むことができるのです。 こんな部屋に私たちは月に30リーヴルも払わなくちゃいけないのです。12年前にモーツァルト一家が滞在したときとは比べようもない惨めさである。 そして、この3ヶ月後、マリア・アンナは他界する。 葬儀はパリのサン・トゥスタシュ教会で行われ、遺体は教会付属の墓地に埋葬されたが、その墓地は7年後に廃棄されたため、墓は残っていない。「モーツァルト書簡全集 IV」(白水社)pp.21-22