K.1- K.100- K.200- K.300- K.400- K.500- K.600- App.K Catalog
17 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91
age5 67 89 1011 1213 1415 1617 1819 2021 2223 2425 2627 2829 3031 3233 3435

ホルツバウアーの「ミゼレーレ」のための8楽曲 (紛失) K.297a (Anh.1)


■作曲 1778年3月か4月 パリ

1778年4月5日、パリから故郷に宛てた手紙によれば、復活祭の前の週に、コンセール・スピリチュエルでミゼレーレを上演することになった。 そのため、支配人のルグロは(モーツァルトを介して?)マンハイム宮廷楽長ホルツバウアー(67歳)の「ミゼレーレ」を取り寄せた。 ところが、マンハイムのコーラスに比べて(モーツァルトの皮肉を含んだ言葉によれば)「強力で優秀なパリのコーラス」では合唱曲がまったく効果が上がらないということで、ルグロはモーツァルトに別の合唱曲の作曲を依頼した。 それに応じて以下の8曲を作ったことが分かっている。 (「モーツァルト書簡全集 IV」(白水社)p.23 参照)

  1. 合唱 Allegro
    Quoniam iniquitatem meam ego
    なぜなら私は自分の科(とが)を知っています
  2. 合唱 Adagio
    Ecce eniam in iniquitatibus
    見よ、私は不義のなかに生れ
  3. 合唱 Allegro
    Ecce enim veritatem dilexisti --- Ossa humiliata
    見よ、あなたは真実を心のうちに求められます 〜 あなたが砕いた骨を喜ばせてください
  4. 三重唱(S, T, Bs) Andante - Allegro
    Cor mudumcrea --- adte convertentur
    神よ、私のために清い心を作り 〜 罪びとはあなたに帰ってくるでしょう
  5. レチタティーヴォ(Bs)
    Liberame de sanguinibus
    血を流した罪から私を救い出してください
    ホルツバウアーのアリア(Bs)
    Domine, labia mea
    主よ、私の唇を開いてください
  6. レチタティーヴォ(T)
    Quoniam si voluisse
    なぜなら、あなたは犠牲を好まれません
    ホルツバウアーのアリア(T) Andante
    Sacrificium deo spiritus
    神の受けられる犠牲(いけにえ)は砕けた魂です
  7. 合唱 Andante moderate
    Benigne fac --- muri Jerusalem
    恵みを施し 〜 イェルサレムの城壁を
  8. T独唱と合唱 Allegro
    Tunc acceptabis --- super altare tuum vitulos
    そのときあなたは喜ばれるでしょう 〜 祭壇に雄牛が捧げられるでしょう
なお、冒頭の合唱はモルツバウアーのものであった。 しかし聴衆の人気がなく、モーツァルトが作曲した4つの合唱曲は2曲しか演奏されなかった。 作曲について伝えた1778年4月5日の手紙のあと、すぐ5月1日には「仕事が徒労に終った」と書き送っている。
1778年5月1日、パリ
ところで、コンセール・スピリテュエルのことをお話ししなくてはなりません。 ついでに手みじかに申し上げますが、ぼくの合唱曲は、言ってみれば、骨折り損でした。 ホルツバウアーの「ミゼレーレ」はともかく長くて、人気がありませんでした。 そのためぼくの合唱曲も4つでなく2つしかやれず、したがっていちばん良いのが抜かされました。 でもそれは大したことではありません。 その中にぼくのも加わっているのを知っていた人は多くありませんし、大抵の人はぼくのことなんか全然知らないのです。 もっとも、練習のときは大喝采でした。 ぼく自身−−パリで賞められるなんて当てにしてなかったので−−ぼくの合唱曲に大いに満足でした。
柴田治三郎「モーツァルトの手紙(上)」岩波文庫 p.147

 
 

余談

モーツァルトはルグロにただで利用されただけに終り、しかも作品も失われてしまった。 もとのホルツバウアーの「ミゼレーレ」も紛失。 そもそもルグロがモーツァルトに作曲依頼したのは、「田舎から都会に出て来た若造だから、ただで使える」とでも考えたのだろう。 Anna Maria それに、自分の家でクラヴィーアを使わせ、食事もさせているんだから、このくらいの作業をしてもらって当然と思っていたかもしれない。 上記4月5日の手紙で、母マリア・アンナが書いているところを読んでみよう。

一日じゅう、ひとりっきりで部屋のなかに坐っていますが、まるで牢屋にでも入れられているみたいです。 おまけにとっても暗くて、小さな中庭に面しているだけなので、一日じゅうお日さまが見られませんし、お天気がどうなのかも分かりません。 わずかに差し込んでくる光で、やっとの思いでなにかちょっとしたものを編むことができるのです。 こんな部屋に私たちは月に30リーヴルも払わなくちゃいけないのです。
「モーツァルト書簡全集 IV」(白水社)pp.21-22
12年前にモーツァルト一家が滞在したときとは比べようもない惨めさである。 そして、この3ヶ月後、マリア・アンナは他界する。 葬儀はパリのサン・トゥスタシュ教会で行われ、遺体は教会付属の墓地に埋葬されたが、その墓地は7年後に廃棄されたため、墓は残っていない。
[Home] 2005/12/11