Mozart con grazia > ピアノ協奏曲
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ピアノ協奏曲 第10番 変ホ長調 K.365 (316a)

  1. Allegro 変ホ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante 変ロ長調 3/4 三部形式
  3. Allegro 変ホ長調 2/4 ロンド形式

〔編成〕 2 p, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1779年初 ザルツブルク、ウィーン

モーツァルトのザルツブルク時代最後のピアノ協奏曲と位置づけられている。 また、編成楽器に「クラリネット2、トランペット2、ティンパニ」を加える版もあり、これらはウィーンに移ってから追加されたかもしれないという。 ただし、作曲時期について、タイソンによると1775年から1777年の間、すなわち「第1・第2楽章のカデンツァが、1775年8月から1777年1月頃までに使用した種類の紙に記されている」という。 このようにまだわからないことが多い。

ザルツブルクの父の家で行われていた音楽会用に、彼自身と姉のために作曲したと推定されている。 3台のピアノのための協奏曲ヘ長調 K.242 をのちに2台用に編曲したのもあるが、最初から2台のために作ったものはこれが唯一。
父の手から離れ、母とともに出かけた職探しの旅。 生まれて初めて味わった自由。 しかし旅先で母を失い、そして最後の希望であったアロイジアにもふられて、モーツァルトは負け犬となってザルツブルクへ帰らなければならなかった。 退屈な田舎町に戻って最初に手がけたのがこのピアノ協奏曲だった。 失意のうちに帰郷し、嫌悪しっきていた大司教の従僕に戻されたにもかかわらず、オカールの言葉によれば、

あれほど多くの失望のあとでは、悲壮で引きつった音楽が出て来て当然だろうと人は思う。 しかし驚くべきことに、そんなものは一つも見られない。
ここにもモーツァルトの音楽を聴く者が心得ておかなければならない秘密の鍵(あるいは「モーツァルトの美学」と言ってもよい)がある。 刺激の乏しい地方都市に閉じ込められ、聴く耳を持たない尊大な田舎貴族たちに囲まれ、「ここではイスやテーブルに聴かせているようなものです」と言いながらも、後のウィーン時代の作品を思わせる傑作を次々に残したが、この曲もその一つ。
このコンチェルトは幸福感、明朗、楽想案出のあふれんばかりの豊かさ、自分自身に対する喜びの作品である。 これは、創造の秘密と伝記的体験とがいかに僅かしか関連しないかを示す証拠である。 なぜならこの作品は、モーツァルトが生涯で味わった最も苦い幻滅のあとで成立したものだからである。
[アインシュタイン] p.402
1778年7月3日、母がパリで死去。 それをザルツブルクの父へ伝える有名な手紙の中で「ところで、シュレーターの協奏曲をザルツブルクでお持ちかどうか、お知らせください」と書き、さらに7月31日の手紙で姉ナンネルに「シュレーターの協奏曲集を送ります」と書いていることから、この作品についてアインシュタインはザクセン出身のピアニスト、シュレーターの影響を受けていると推測している。 すなわち、1778年の夏パリでシュレーターの6曲のピアノ・コンチェルトをモーツァルトが知ったことと無縁ではないというのである。 そして、シュレーターのラルゲットとこのピアノ協奏曲のアンダンテの間に直接的な関係があるように感じられると述べている。 モーツァルトがシュレーターの作品に無関心でなかったことは確かで、当時ロンドンで活躍していたシュレーターのピアノ協奏曲のために書いたカデンツァがいくつか(K.624 / 626a)残っている。 モーツァルト自身が演奏するときはその必要がないので、たぶん弟子がシュレーターのピアノ協奏曲を演奏するときのために書いたものであろう。
ただしこの曲の成立時期についてタイソンの指摘の通り「1775年8月から1777年1月頃まで」だということになれば、以上の説明が根本から見直されることになろう。 第3楽章に、1776年1月から8月の間に書かれたディヴェルティメント変ホ長調(K.252)の終楽章で使われた民謡が出てくるのは何か関係があるのだろうか。

その後この曲については以下のことが知られている。 1781年とうとうウィーンで自立を決め、ピアノ教師として忙しく活動し始めたばかりのモーツァルトは弟子のためにピアノ曲をできるだけ多く必要としていた。

1781年6月27日、ザルツブルクの父へ
変ロ長調の四手のためのソナタと、2台のクラヴィーアのための協奏曲2曲とを写譜して、至急送ってください。
[書簡全集 V] p.88
ここで、2台のクラヴィーアのための協奏曲のもう一つは「ヘ長調」(K.242)である。 モーツァルトはそれらをすぐにでも使いたかったようだが、写譜に時間がかかったせいか、届けられたのは10月になってからのようである。 そして11月23日、モーツァルトはこの曲(K.365)をアウエルンハンマー邸で弟子のヨゼファ嬢と共演した。
さらに1782年5月26日の第1回アウガルテン演奏会でもモーツァルトは同嬢と共演した。 その演奏のためにモーツァルトはクラリネット、トランペット、ティンパニを補強したらしい。
クラリネット、トランペットとティンパニの声部は1881年初頭のブライトコップ&ヘルテル社版パート譜に初めて現れるもので、自筆譜はもちろん、モーツァルトに由来する可能性の高い2種の筆写譜にも含まれていない。
[全作品事典] p.167
また、これに関してロビンズ・ランドンは次のような興味深いエピソードを語っている。 それは1941年タングルウッドで、モーツァルトの没後150年祭を祝ってセルゲイ・クーセヴィツキーがボストン交響楽団を指揮したときのことである。
クーセヴィツキーは『2台のピアノのための協奏曲』(K.365)をクラリネット、トランペット、それにティンパニのパートをつけて演奏したが、これは私が持っていたオイレンブルク版のポケット・スコアにはないもので、しかも私が休憩時間に指揮台にそっと這い上がって見ると、これらのパートはブライトコプフ・ウント・ヘルテル版の指揮者用スコアにもないのでびっくりしたものだった。 これらの美しいパートはどこからやって来たのか? その当時でさえ、私はこれらがモーツァルトのものだと確信していたのだった。 これらのパートが今や『新モーツァルト全集』の総譜には含まれているのを私は喜びをもって書き留めておく。 これらのパートは最初のオリジナルなスコアには入っていない。 だが、モーツァルトはそれらをあとで、ウィーンでのさる演奏用につけ加えたのであった。
[ランドン] p.4

自筆譜はベルリンのDeutsche Staatsbibl.にある? ザルツブルクSt.Peter (Stiftarchiv)に第1と第3楽章のカデンツァがある。

〔演奏〕
CD [Music & Arts CD-895] t=25'20
バドゥラ=スコダ Paul Badura-Skoda (p), ベラ Dagmar Bella (p), フルトヴェングラー指揮 Wilhelm Furtwaengler (cond), ウィーン・フィル Vienna Philharmonic Orchestra
1949年2月8日、 the Musikvereinsaal, Vienna
CD [ポリドール F28L-28067] t=25'30
アシュケナージ Vladimir Ashkenazy (p), バレンボイム Daniel Barenboim (p, cond), イギリス室内管弦楽団 English Chamber Orchestra
1972年4月、ロンドン
CD [TELDEC WPCS-10099] t=24'10
エンゲル Karl Engel (p), Till Engel (p), ハーガー指揮 Leopold Hager (cond), ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団 Mozarteum Orchester Salzburg
1977年頃、モーツァルテウム大ホール
CD [TELDEC 27P2-2242] t=25'03
グルダ Friedrich Gulda (p), コリア Chick Corea (p), アーノンクール指揮 Nikolaus Harnoncourt (cond), アムステルダム・コンセルトヘボー Concertgebouw Orchestra, Amsterdam
1983年6月、アムステルダム
CD [PHILIPS PHCP-101] t=25'02
ラベック姉妹 Katia Labeque (p), Marielle Labeque (p), ビシュコフ指揮 Semyon Bychkov (cond), ベルリン・フィル Berliner Philharmoniker
1989年2月、ベルリン
CD[TELDEC WPCS 21219] t=22'39
アルゲリッチ Martha Argerich (p), ラビノヴィチ Alexandre Rabinovitch(p), フェーバー Joerg Faeber 指揮, ヴュルテンベルク室内管弦楽団
1995年1月、ハイルブロン、リーダーハレ

〔動画〕


 
 

Johann Samuel Schröter

1752 - 1788

Corona
一説では1752年3月2日に生まれたといわれる。 父ヨハン・フリードリヒ・シュレーターはワルシャワのオーボエ奏者で、妻マリーとの間に二人の息子ヨハン・ザームエルとハインリヒ(1760~1782以後)、二人の娘コローナ(Corona, Elisabeth Wilhelmine, 1751~1802)とマリー・アンリエット(1766~1804以後)をもうけた。 1764年、一家はライプツィヒに移住。 娘たちは歌手として、ハインリヒはヴァイオリン奏者に、そしてヨハン・ザームエルはピアニストとして知られるようになった。 コローナの歌声は文豪ゲーテ(1749~1832)の心を魅了したといわれる。

ヨハン・ザームエルは1772年にロンドンを訪れ、ヨハン・クリスティアン・バッハアーベルの音楽会に出演、1776年にはワイマールの宮廷音楽家になるなど活躍。 1782年ヨハン・クリスティアンの死後には、英国シャーロット王妃の楽長(ミュージック・マスター)の職を継ぎ、ロンドンで最も人気のあるピアニストとなった。 1788年11月2日ロンドンで没。

アインシュタインは「モーツァルトが、技術的にはシュレーターからなにも学ぶところがなかったことはたしかである」と言っている。

〔動画〕


〔参考文献〕


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2014/01/05
Mozart con grazia