Mozart con grazia > 弦楽四重奏曲 >
17
age
61
5
62
6
63
7
64
8
65
9
66
10
67
11
68
12
69
13
70
14
71
15
72
16
73
17
74
18
75
19
76
20
77
21
78
22
79
23
80
24
81
25
82
26
83
27
84
28
85
29
86
30
87
31
88
32
89
33
90
34

91
35
92

弦楽四重奏曲 第23番 ヘ長調 「プロシャ王第3」 K.590

  1. Allegro moderato ヘ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante ハ長調 6/8 
  3. Menuetto : Allegretto ヘ長調 3/4 
  4. Allegro ヘ長調 2/4 ロンド風ソナタ形式
〔編成〕 2 vn, va, vc
〔作曲〕 1790年6月 ウィーン

1790年6月

123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930



自作目録を見るとわかるように、1790年はなぜか作曲が極端に少ない。 ヘンデルの作品の編曲を除くと、作品の数はプフベルクに借金を願う手紙の数より少ないほどである。 この弦楽四重奏曲は自作目録に6月作曲と記入されているが、5月17日(または前日)には

今はもう一文なしになってしまい、最愛の友であるあなたに、何とかして、あなたのほんのご不用な分だけでもお貸し下さるよう、お願いせざるをえない次第です。 私の希望どおりに、一、二週間のうちに金が入りましたら、今お借りする分を、さっそくお返しいたします。 すでに長いあいだお返ししないままになっている分については、残念ながら、まだご勘弁をいただくほかありません。 そうしたことが私にとってどんなに気遣いの種になりますことか、お察しいただけますならば。 このごろはずっと私の四重奏曲の完成も妨げられています。 しかし今度は宮廷に大きな望みをかけています。
[手紙(下)] pp.170-171
と書いている。 このような状況のなかで、2つの弦楽四重奏曲(5月に変ロ長調 K.589 と、6月にヘ長調 K.590)が作られたのであった。 先の(第21番の)ニ長調 K.575 がチェロ奏者でもあるプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム2世のために作曲されたことが明記されていることや、一連の手紙などから、これらの作品も(疑問符付きながら)同じ動機によるものと思われている。 また、モーツァルトはこれらの楽譜の出版をコゼルフ(当時43歳)のところで自費版刻しようとしていた。
プフベルクへ、1789年7月12日(〜15日)
私の運命は(と言ってもヴィーンでだけですが)、残念ながら私に背を向けて、私がいくら稼ごうとしても、何ひとつ稼ぎにならないのです。 私は二週間も名簿をまわしましたが、申込者はスヴィーテンただ一人です!
・・・略・・・
目下、フリーデリケ王女のためにやさしいピアノソナタ6曲と王のために四重奏曲6曲を書いているのです。 これをすべてコージェルーホのところで私が費用を持って印刷させます。
[手紙(下)] p.156
しかし、金が工面できず、これらの弦楽四重奏曲をやむなくアルタリア社に二束三文で手放したのであった。
しかし、われわれは知っているが、四重奏曲は3曲(K.575、K.589、K.590)しかできず、それらはモーツァルトの死の数日前に出版されたが、コーツェルーフが版刻したのではなく、アルタリアのみすぼらしい版で出されたし、ピアノ・ソナタもただ一曲だけしか完成されなかったのである。
[アインシュタイン] p.343
モーツァルト自身が言っている。
プフベルクへ、1790年6月12日(または前日)
妻は少しばかり、快くなっています。 もう痛みも和らいでいるようです。 でもまだ60回も入浴が必要なので秋にはまた出かけなければなりません。 何とかして、それが効いてくれればいいのですが。 最愛の友よ、今のこの差し迫った支出にさいして、いくらかでもご援助願えますなら、そうしてやって下さい。 倹約のため私はバーデンに留まって、よっぽどのことがないかぎり、町へは来ません。 今は私の四重奏曲(この骨の折れる仕事)を、こんな状況の中でお金にしたいばっかりに、二束三文で手放す羽目になりました。 そのためにも、今度はピアノソナタを書いています。
[手紙(下)] p.172
このようにして作曲されたプロイセン王のための3曲はモーツァルトにとって最後の弦楽四重奏曲となった。 死後、1791年12月28日にウィーンのアルタリアから「作品18」として出版された。

アインシュタインによれば、前曲「変ロ長調 K.589」にはハイドンへの回想が見られるが、最後のこのヘ長調の弦楽四重奏曲はもはや「モーツァルトのハイドンへの告別」であり、休息をもたらすはずのアンダンテは

あらゆる室内楽文献のなかで最も感情の繊細な楽章の一つであるアンダンテは、生への、至福と悲哀に満ちた告別であるかのようである。 生はなんと美しかったことか! なんと幻滅を与えたことか! なんと短かったことか!
[アインシュタイン] p.259
という印象を与えるものであり、そしてオカールは「人は不思議な深淵に沈み込む」という。 しかしこのような感想は、モーツァルトの破局的で早すぎる最期を知っている後世の人々の追悼文というべきものである。
だが、30代半ばの作曲家が「晩年」の作品を書けるものだろうか。 不合理にもそうしたことは考慮されず、最後の数年の音楽には告別の精神が感じられるという考えがいまなお広くみられ、受け入れられている。
[ヴォルフ] p.4
まだ若く、創作意欲にあふれていたモーツァルトにはしみじみと自分の過去を振り返る暇はなかっただろう。 さまざまなジャンルの創作で新しい視野を切り開こうと考え、挑戦し続けていた彼は、機会さえあれば弦楽四重奏のジャンルでもっと作品を残してくれたにちがいない。
ハイドンが弦楽四重奏曲というジャンルに対して、またウィーンの定評ある四重奏文化に対してかなめ石を築いたことに、疑いの余地はない。 同様に疑いがないのは、ハイドンの作品33に触発されたモーツァルトの四重奏曲(後にハイドンに献呈)が先輩の業績を固めつつ、新たな端緒を開いたことである。 皇王室貴賓室作曲家となたモーツァルトは、この端緒を『プロシャ王四重奏曲』でさらに発展させ、さらに、ディヴェルティメントK563弦楽五重奏曲ピアノ三重奏曲が示すような、拡大された応用領域を目指した。 このため、四重奏曲という基本ジャンルを越えた室内楽への多彩なアプローチ、冒険への渇きが、ベートーベン、フンメル、シューベルトら、この領域における後継者たちにとって、よき挑戦の対象となったのである。 モーツァルトの方法と言語が音楽の未来に向かって投げかけた影は、「貴賓室作曲家」という狭い範囲をはるかに越えていた。 それは、彼が因習の限界を踏み越えようとする生来の傾向を有し、自分の目的をその上に、高く設定したからである。
[ヴォルフ] pp.242-243

〔演奏〕
CD [WPCC-4120/1] t=23'20
アマデウス四重奏団
1950年、ウィーン
CD [KING K33Y 137] t=24'47
ウィーン・アルバン・ベルク四重奏団
1976年6月
※下の[TELDEC 72P2-2803/6]と同じ。
CD [TELDEC 72P2-2803/6] t=24'47
ウィーン・アルバン・ベルク四重奏団
1976年6月
※上の[KING K33Y 137]と同じ。

〔動画〕

〔参考文献〕

 

Home K.1- K.100- K.200- K.300- K.400- K.500- K.600- App.K Catalog

2016/07/10
Mozart con grazia