Mozart con grazia > アリア >
17
age
61
5
62
6
63
7
64
8
65
9
66
10
67
11
68
12
69
13

70
14
71
15
72
16
73
17
74
18
75
19
76
20
77
21
78
22
79
23
80
24
81
25
82
26
83
27
84
28
85
29
86
30
87
31
88
32
89
33
90
34
91
35
92

アリア「いとしい人よ、もし私の苦しみが」 K.deest

Aria for soprano "Cara, se le mie pene"
〔編成〕 S, 2 hr, vn, va, bs
〔作曲〕 1769年? ザルツブルク

作詞者や作曲の目的は不明。 1960年代にプラートにより発見された。 成立については何もわからないが、真作と認められ、1769年にザルツブルクで作曲されたものと推測されている。 まだケッヘル番号はない(K.deest)。

成立について以下の説が現在のところ通説となっている。 ただしこの曲について新しい発見があれば、以下は全面的に書き改められる可能性がある。

1767年9月、モーツァルト一家は、皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女、当時16歳)とナポリ・シチリア王フェルディナント1世の婚儀のために催される祭典をめざしてウィーンへ旅立ったが、ちょうどその頃ウィーンでは天然痘が大流行していた。 皇女マリア・ヨゼファは10月15日に病死した。 10月下旬、感染を逃れてモーツァルト一家はウィーンを離れ、オルミュッツに避難したが、まずヴォルフガングが、次に姉ナンネルも天然痘にかかり、このときヴォルフガングは一時的に失明し、危険な状態にまでいったという。 奇跡的に助かったとき、その喜びをレオポルトはザルツブルクの家主ハーゲナウアーに次のように伝えている。

1767年11月10日
ヴォルフガングは幸運にも天然痘に打ち克ちました!
で、どこで? オルミュッツでです!
[書簡全集 I] p.301
そのとき救ってくれたのがオルミッツの医師ヴォルフ(Joseph Wolff, 1724-78?)であった。 そのお礼に、モーツァルトは令嬢(Nepomucena Franziska Wolff, 1758-?)にこの曲を書いたのだという。 のちにレオポルトは次のように書き残している。
1778年5月28日
オルミュッツからは侍医のヴォルフが一緒に来ておられましたが、この人のお嬢さんのために、昔、ヴォルフガングはオルミュッツでアリアを1曲作曲してあげました。
[書簡全集 IV] p.81
そのアリアとは「歓喜に寄す」(K.53)とされたことがあったが、現在はその説は否定されている。 ヴォルフ嬢のために書いたといわれるアリアは散逸したと思われているが、もしかするとこのアリア「いとしい人よ」がそれであるかもしれないという。 確かな根拠があるわけではないが、もしそうだとすれば、作曲された時期はモーツァルトがオルミュッツに滞在していた(しかも天然痘に打ち克ったのちの)1767年12月頃と推測される。

〔歌詞〕
Cara, se le mie pene
Tutte scordar mi fai,
Non separarti mai
Da questo amante cor.
Stelle, se giuste siete,
Pietose proteggete
Il suo fedele amante,
Il mio costante amor.
いとしい人よ、もし私の苦しみが

〔演奏〕
CD [Brilliant Classics 93408/1] t=9'41
Francine van der Heyden (S), Ed Spaniaard (cond), European Sinfonietta
2002年8月、オランダ、ハーグ

〔動画〕

〔参考文献〕

 

Home K.1- K.100- K.200- K.300- K.400- K.500- K.600- App.K Catalog

2014/10/12
Mozart con grazia