| Mozart con grazia > ピアノ・ソナタ > 第7番 ハ長調 |
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ピアノ・ソナタ 第7番 ハ長調 K.309 (284b)
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1777年9月23日、母と二人で就職活動のためザルツブルクを出発し、波乱に富んだ「マンハイム・パリ旅行」が始まる。 10月、父の故郷アウクスブルクへ行き、そこで重要な2人の人物と会う。 その一人は有名なベーズレであり、もう一人はクラヴィア職人シュタインである。 シュタインのフォルテピアノを知って、その優れた性能に驚き、父に
シュタインの仕事をまだ見ていないうちは、ぼくはシュペートのピアノがいちばん好きでした。 でも今ではシュタインの方がまさっていると言わざるをえません。 この方がレーゲンスブルク製のものよりも、いっそう共鳴の抑えが利くからです。 強く叩くと、指をのせておこうと離そうと、鳴らした瞬間に、その音は消えてしまいます。 思いどおりに鍵盤を打っても、音はいつも一様です。 カタカタするとか、強くなるとか弱くなるとかということはなく、まして音が出ないなどということはありません。 一言で言えば、すべてが一様なのです。と伝えている。 そして、新たな霊感を得て、ピアノ曲を作るようになるが、この曲はその第1番となった。 なお、シュタインにはピアノを上手に弾く娘(当時8歳半)がいたが、その娘の 演奏を批評する手紙の中で、演奏において何が大切であるかをモーツァルトは次のように書いて いる。(柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(上)」岩波書店 p.70)
(シュタインの娘は)同じ楽句が二度出て来ると、二度目にはゆっくり弾き、三度目になるとさらにゆっくり弾きます。 パッサージュを弾くときは、腕を高だかと上げ、パッサージュを目立たせるので、指でなく腕で、それもつとめて重く、ぎこちなく弾いていることになります。 でもいちばん見事なのは、油のように滑らかに流れなければならないパッサージュに来たとき、どうしても指をいろいろと換えなければならないのに、そんなことには一向構わず、時間が許せば、弾くのをちょっと止めて,手をもち上げ、それからまた無造作にやりだすのです。 ・・・・ 天分はあります。 しかしこんな風では、何もなりません。 いつまでも速さを身につけるには至らないでしょう。 幼いころからタクトを取らずに弾くことにいそしんでいたのですから。 もっとも必要で、もっともむずかしいこと、音楽でいちばん大事なこと、つまりテンポを身につけることは絶対にないでしょう。 ・・・・ ぼくが終始タクトを正確に守っていること、その点にだれもかれも感心します。 アダージョのテンポ・ルバートで、左手はそれと全然関係がないということを、あの人たちはまったく飲みこめず、左手が引きずられてしまいます。この手紙の中に、このピアノソナタ K.309 の原曲となるものが即興で作られた らしいことが書かれている。 それによると、1777年10月22日アウクスブルクでモーツァルトのコンサートが開 かれ、3台のピアノのための協奏曲(K.242)、デュルニッツのためのソナタ ニ長調(K.284)、 ピアノ協奏曲変ロ長調(K.238)、フーガ ハ短調(残されていない)の演奏のあと、突然「即興で華 やかな『ソナタ ハ長調』を弾き、最後をロンドで仕上げました」とある。(柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(上)」岩波書店 p.74-76)
シュタインのピアノ製作にも影響を与え、モーツァルトは母と次の目的地マインハイムに向かった。 10月30日、マンハイムに到着し、4ヶ月半滞在することになるが、そこでマンハ イム楽派の音楽に接し、モーツァルトはさらにまた創作意欲をかき立てられた。 マンハイムの宮廷楽団コンサート・マスターのカンナビヒの娘ローザ(当時13歳)のために作ったとされるこのピアノソナタが書かれたいきさつを次のように手紙にしている。
ぼくは毎日カンナビヒの家へ行きます。 娘さんが一人いて、これがピアノがなかなか上手です。 ぼくはカンナビヒさんをしっかりとぼくの友だちにしたいので、今そのお嬢さんのために、ソナタを一つ書いているところですが、もうロンドまで出来ています。 最初のアレグロとアンダンテを書き終った時、自分でそれを持って言って弾きました。 そのソナタがどんなに喝采を博したか、パパには想像もつかないでしょう。モーツァルト一家と付き合いのあったクリスティアン・フランツ・ダンナー(Christian Franz Danner, 1757 - 1813)がマンハイム宮廷楽団のヴァイオリン見習い奏者としていたが、彼はモーツァルトに「どんな意図でアンダンテを書くのですか?」と尋ねた。 それに対してモーツァルトは「ローザ嬢の性格にそっくり合わせて作曲するよ」と答えたという。 それから約1週間して、彼女に演奏を教え始めた。 3日でローザは最初のアレグロができるようになったが、「表情に溢れていて、譜面通りのフォルテとピアノで趣味よく、的確に弾かなければならない」アンダンテで苦労するだろうとモーツァルトは言っている。(柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(上)」岩波書店 p.77)
このひとはたいそう器用で、とても楽に覚えます。 右手はたいへん良いのですが、左手は惜しいことにすっかりだめになっています。 それが不器用なためでなく、そんなふうにしか教わらなかったのです。モーツァルトはローザ本人とカンナビヒ夫人に「天分が大いにあるし、譜もけっこう読めるし、自然な軽快さを十分にもっていて、非常に感情をこめて弾ける」と誉め、自分が教えることにより「立派なピアニストに仕立てることがきっとできると思う」と約束した。 そして、ローザはこのソナタを喜んで演奏し、教えを受け始めた11月11日から約1ヶ月後の12月6日に、速く弾いてはいけないアンダンテを「可能なかぎりの感情をこめて」弾いてモーツァルトを「言葉では言い表せないほど」大いに感心させた。 この曲はカンナビヒ家のお気に入りとなった。 このようないきさつから、この曲は「カンナビヒ・ソナタ」とも言われる。(柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(上)」岩波書店 p.88)
モーツァルトは最初に出来ていた「アレグロとアンダンテ」を11月29日にザルツブルクにいる姉ナンネルに送り、さらに12月3日に残りの「ロンド」を送った。 ナンネルは「アンダンテの演奏には大変な注意力と明快さが必要ですね。 とても気に入りました」と返事を送っている。 そして、故郷のザルツブルクでは姉ナンネルが「完全に、とてもうまく、しかもあらゆる表情をつけて」演奏し、父レオポルトを感心させていた。 また、レオポルトは送られてきた譜を写し、その写譜を旅先のモーツァルトに送り返している。 彼は息子に「お前はローザ嬢がお気に入りになってこの曲を作ったんだろ」と見透かしていた。
K.309, K.310, K.311の3曲は1781か1782年にパリのエーナから「作品4」として出版されたが、大量の誤植があるという。 さらに1789年にマンハイムのゲッツ(Johann Michael Goets, 1735? - 1810)から海賊版が出たともいう。 彼は1776年にプファルツ選帝侯から20年間の楽譜出版権を得て、モーツァルトの作品も出版したが、その大部分はアルタリア版の複製だったという。
■演奏
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CD [DENON CO-3858] t=18'38 ピリス (p) 1974年1〜2月、東京、イイノ・ホール |
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CD [DENON CO-3202] t=19'32 ヘブラー Ingrid Haebler (p) 1988年10月 |
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CD [ACCENT ACC 8851/52D] t=18'32 ヴェッセリノーヴァ (fp) 1988 |
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CD [TELDEC WPCS-10376] t=17'26 カツァリス Cyprian Katsaris (p) 1988年12月、ベルリン |
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CD [Glossa GCD 920504] t=21'57 P. Cohen (fp, Anton Walter, Vienna ca.1790) 1996年8月 |
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CD[ALM ALCD-9075] t=17'35 久元祐子 (p) 2007年4月、茅野市民館 |
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