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オーボエ協奏曲 ハ長調 K.314 (285d)


第1楽章 Allegro aperto ハ長調 4/4 ソナタ形式
第2楽章 Adagio non troppo ヘ長調 3/4 ソナタ形式
第3楽章 Allegretto ハ長調 2/4 ロンド形式

[ 編成 ] ob, ob*2, hr*2, vn*2, va, bs

[ 作曲 ] 1777年 ザルツブルク

ザルツブルク宮廷楽団のオーボエ奏者ジュゼッペ・フェルレンディス(Giuseppe Ferlendi(s), 1755 - 1802)のためにザルツブルクで作曲された。 フェルレンディスはベルガモ出身で1775年4月1日から78年まで宮廷楽団に属していた。 レオポルトはたびたび「フェルレンディ」と呼んでいた。 1777年11月1日にマンハイムにいる息子宛にレオポルトが送った手紙におもしろいエピソードが書かれている。 それによると

フェルレンディスは、ヴィーンに旅行していくらかでも稼ぎたいがよろしいかと、大司教に届けた。 彼の給料じゃ食っていけないからというのだ。 許可にはならないだろう。 おまけに、先ごろ、彼はメンヒスベルクに出かけて行って、鳥をつかまえようとした。 逃げようとする鳥を一羽追いかけて行って、草の上で、切り株に胸をいやというほど打ちつけてはげしく倒れてしまい、長い間倒れたままだったが、やがてやっと息ができ、立ち上がることができたのだ。 彼は瀉血をし、オリーブ油を飲まねばならなかったが、長いこと吹くことができなかった。
モーツァルト書簡全集 III(白水社) p.204
そのフェルレンディスのために書いたことから「フェルレンディス協奏曲」と呼ばれることがある。 フェルレンディスは1778年7月30日に辞職し、ウィーンに移ったが、その理由は「妻には空気が合わない」からだという。 彼がやめる2ヶ月前から、大司教は彼が協奏曲を吹くごとに1・2ドゥカーテンを与えていたり、楽団員の間で人気者だっただけに思いがけないことだったらしい。 ただし、レオポルトは「自分だけが知っている別の話がある」といっている。 フェルレンディスの没年ははっきりしないが、リスボンで亡くなったという。

その後、 マンハイムではフリードリッヒ・ラムがよく演奏していたらしく、1778年2月14日にモーツァルトがザルツブルクの父へ宛てた手紙に

ラムさんがフェルレンディスのために書いたぼくのオーボエ協奏曲の5度目の演奏をしましたが、これは当地でたいへんな評判となっています。 いまや、これはラムさんのおはこです。
モーツァルト書簡全集 III(白水社) p.526
と書かれている。 ただし、ここに書かれた「フェルレンディスのために書いたオーボエ協奏曲」は別にあり、ケッヒェル第6版では K.271k という番号を与え、それは消失したとしている。

モーツァルトがウィーンに移り住んでからエステルハージー侯に仕えるオーボエ奏者アントン・マイヤー(Anton Mayer)にパート譜を提供したらしいが、楽譜は長い間行方不明だった。 1920年にパウムガルトナーによってフルート協奏曲とそっくりの写譜が発見され、それによってこの曲がドゥ・ジャンの注文に応じた「フルート協奏曲第2番」の原曲であることが分かった。

この曲は、モーツァルトの現存する唯一の「オーボエ協奏曲」ということになるが、1920年代に(モーツァルト研究家)ドゥ・サン・フォアがミラノのヴェルディ音楽院で発見した「オーボエ協奏曲ヘ長調」があった。 しかし様式的にモーツァルトの作ではなく、フェルレンディスの作品であると結論づけられた。 その曲(フェルレンディス作曲「オーボエ協奏曲第1番ヘ長調」)は CD[PHILIPS 32CD-679] で、ハインツ・ホリガーのオーボエ演奏で聞くことができる。 そこで、ホリガーは

美しい旋律のアイディアを豊富に抱いており、ニ短調のアダージョ楽章も劇的な工夫がこらされている。 息の短い形式と作曲の多少のぎこちなさがあるため、かつてモーツァルトの作と考えられていたことが今日では理解し難い。
佐々木節夫訳
と述べている。

[ 演奏 ]

RVC
R30E-
1025-8
ピエルロ (ob), グシュルバウアー指揮ウィーン・バロック
CD [RVC R30E-1025-8] t=19'51

PHILIPS
PHCP-10364
ホリガー (ob) 指揮アカデミーCO
1983
CD [PHCP-10364], [PHILIPS 422 509-2] t=19'43

ポリドール
F35L-50310
ピゲ (ob), ホグウッド指揮AAM
1984
CD [ポリドール F35L-50310] t=18'00

SONY
SRCR-8966
宮本文昭 (ob), ガルシア指揮イギリスCO
1985
CD [SONY SRCR-8966] t=23'26

COCO-78060
グレツナー Burghard Glaetzner (ob), ヘンヒェン指揮 Haenchen (cond), バッハ室内管弦楽団 CPE Bach Chamber Orchestra
1987年
CD [COCO-78060] t=21'06

POCG-7061
ヴォルフガング (ob), オルフェウスCO
1987
CD [POCG-7061] t=20'16

キング
KICC-7274
ゴリツキ (ob), ライスキ指揮ポーランド室内PO
1992
CD [キング KICC-7274] t=21'19
※譜例つき解説ある

ERATO
WPCS-11107
ポンセール (ob), コープマン指揮アムステルダム・バロック管
1993
CD [ERATO WPCS-11107] t=18'22
※オリジナル楽器使用

WPCC-5176
アンドレ (tp), グシュルバウアー指揮フランツ・リストCO
1977
CD [WPCC-5176] t=20'11
※トランペット演奏


フルート協奏曲 第2番 ニ長調

第1楽章 Allegro aperto ニ長調 4/4 協奏風ソナタ形式
第2楽章 Adagio non troppo ト長調 3/4 ソナタ形式、副主題はニ長調
第3楽章 Allegretto ニ長調 2/4 ロンド風ソナタ形式

[ 作曲 ] 1778年1月か2月 マンハイム

母と二人でパリへ向かって旅だったモーツァルトは1777年10月30日マンハイムに到着し、そこに4ヶ月半滞在した。 その頃、マンハイムでは選帝侯カール・テオドールは文化活動を奨励し、ドイツにおける文化全般の中心地を作り上げていた。 音楽界ではシュターミツの弟子カンナビヒはさらにオーケストラの指揮法や演奏技術を高め完成させていた。 そして多くの優秀な音楽家が集まり作曲技法についても様々な改良が成されていた。 そこでモーツァルトは歌手のアントン・ラーフ、フルート奏者ヨハン・バプティスト・ヴェンドリング、オーボエ奏者フリードリヒ・ラムなどと親しくなり、またアロイジア・ウェーバーに恋する。

1777年12月、この曲が生まれるきっかけとなる話が持ち上がった。 それは、アマチュアのフルート奏者ドゥジャン(Ferdinand Nikolaus Dionisius Dejean, 1731 -97)がフルート協奏曲を注文してきたもので、モーツァルトはザルツブルクの父へ次のように知らせている。

いつものようにヴェンドリンクさんのところへ食事に行きました。 するとヴェンドリンクさんがぼくに言いました。 「例のインドの人(これは自分の財産で暮らしているオランダ人で、すべての学問を愛好し、ぼくの友人であり、崇拝者である人ですが)、この人はとても貴重な人物です。 あなたがこの人のために、フルートのための小さな、やさしい、短い協奏曲を3曲と、四重奏を2,3曲作曲して下さったら、200フローリーン差し上げると言います。」
柴田治三郎「モーツァルトの手紙」(岩波書店)上 p.102
ドゥジャンはボンに生まれ、東インド会社に勤めていた医師であったが、当時はヨーロッパ中を旅していて、ちょうどこの頃マンハイムに滞在していた。 モーツァルトは注文に応じたが、それには(1778年2月4日の父宛の手紙にあるように)「ドゥジャンのための音楽をごく簡単に完成させる。 それで200フローリン入る。 そうすれば、いつまでもマンハイムに滞在できる」ことになり、アロイジアと一緒に演奏会する機会を作れるかもしれないという魂胆があった。

しかし、レオポルトはこの安易な考えにクギをさし、(1778年2月12日の手紙で)「ドゥジャンのための曲を楽に仕上げたいというので、私はびっくりした。 すると、まだ作ってなく、渡していないのか。 しかも2月15日にマンハイムを出発しようというのか。 ドゥジャンがお前に約束を守らなかったらどうするのだ。 ウェーバー嬢と一緒に旅回りしたいなどと、一体どうしてそんなとんでもない考えに心を囚われたのか。 お前の手紙はまるで小説のようだ。」と、叱りつけた。

1778年2月14日、モーツァルトは父に次の手紙を書いているが、それがこの曲の成立の根拠となるものである。

彼のために2つの協奏曲と3つの四重奏曲しか作曲しなかったので、ただ96フルーリンくれただけです。 (これが約束の半分だとすれば、彼は4フローリン間違えています)
ぼくがそれを完成できなかったのも、まったく当然です。 ここでは静かな時間がぜんぜん持てません。 夜だけしか作曲できないのです。 なぐり書きをするんだったら一日じゅうだってできるでしょう。 でもこの種の作品は世間に公表されます。 そしてぼくの名前が表紙に出る以上、ほんとうにそれに恥じないだけのことをしたいと思います。 それに、御存知の通り、ぼくはがまんできない楽器のために書かなくてはならないときは、いつもたちまち気が乗らなくなります。
モーツァルト書簡全集 III(白水社) p.525-526
「がまんできない楽器」とはフルートのことで、当時はまだ完成された楽器ではなかったので、音に敏感なモーツァルトは好きではなかった。 時間の余裕がなかったのか、それとも楽に仕上げようという気持ちがあってか、さらにはまた好きでない楽器のために作曲する気があまり起きなかったのか、フルート協奏曲第2番(ニ長調)はオーボエ協奏曲(ハ長調)を編曲したものになった。 そのため、作曲依頼したドゥジャンが200フローリン(約50万円)の契約を96フローリン(約24万円)に値切った。 結局、モーツァルトがドゥジャンのために書いたのは以下の5曲だった。
  1. フルート協奏曲 第1番 ト長調 K.313
  2. フルート協奏曲 第2番 ニ長調 K.314
  3. フルート四重奏曲 第1番 ニ長調 K.285
  4. フルート四重奏曲 第2番 ト長調 K.285a
  5. フルート四重奏曲 第3番 ハ長調 K.285b (Anh.171)
これらを合計24万円程度で購入できたとは、夢のような話である。 なお、この協奏曲第2番は最初からフルート用に作られたのではないかと思われるほど素晴らしく、「原曲はフルート用であったものを、オーボエ用に編曲し、さらにもう一度フルート用に直したのではないか」という説もある。

[ 演奏 ]

RVC
R30E-
1025-8
ランパル (fl), グシュルバウア指揮ウィンPO
CD [RVC R30E-1025-8] t=20'49

BMG
VICTOR
BVCC-
8825/26
ゴールウェイ James Galway (fl), プリエール指揮 Andre Prieur (cond), ニューアイルランド室内管弦楽団 New Irish Chamber Orchestra
1973年
CD [BMG VICTOR BVCC-8825/26] t=20'19

PHCP-3918
ニコレ Aurele Nicolet (fl), ジンマン指揮 David Zinman (cond), コンセルトヘボウ Royal Concertgebouw Orchestra, Amsterdam
1978年6月
CD [PHCP-3918] t=19'59

PHILIPS
422 509-2
グラフェナウアー (fl), マリナー指揮アカデミー
1983
CD [PHILIPS 422 509-2] t=20'17

EDITIO
CLASSICA
BVCD-1842
クイケン Barthold Kuijken (travers-fl), クイケン指揮 Sigiswald Kuijken (cond), ラ・プティット・バンド La Petite Bande
1986年4月
CD [EDITIO CLASSICA BVCD-1842] t=17'48
※アウグスト・グレンザー(1780年頃)のモデルによるルドルフ・トッツ製(1985年インスブルック)

ビクター
R25E-1003
ランパル (fl), スターン指揮エルサレム音楽センターCO
1987
CD [ビクター R25E-1003] t=19'21


[Home>Concerto for oboe/for flute] 2005/10/03