| Mozart con grazia > ピアノ協奏曲 > 第16番 ニ長調 | 2008/04/06 |
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ウィーンで独立し精力的に活動し始めた28歳のモーツァルトは自作目録を作り始めた。 それを見てもわかるように、自分自身の演奏会用にピアノ協奏曲を立て続けに作曲していて、この協奏曲はその自作目録の第2番になる。 自分自身の演奏会(3月24日)のために書かれた大編成のオーケストラで演奏する曲で、当然のことながら技巧的にも難しい。 モーツァルトはザルツブルクの父への手紙(1784年5月26日)で次のように書いている。
リヒター氏がそんなに誉めていた協奏曲は変ロ長調のものです。 これは私が作ったものの中でも一番いいもので、その当時もあの人はそう言って誉めました。 私はこの二つのうち、どっちを択っていいか分かりません。 二つとも、ひと汗かかせる協奏曲だと思います。 でも、むずかしさという点では変ロ長調の方がニ長調以上です。 ともかく、変ロ長調、ニ長調、ト長調の三つの協奏曲のうち、どれがいちばんお父さんと姉さんのお気に召すか、是非知りたいものです。ここで「二つ」と言っているのは、第15番変ロ長調 K.450と、この第16番ニ長調のことであり、「三つ」と言うのは、この二つに第17番ト長調 K.453 を加えたものである。 また、リヒター氏(Georg Friedrich Richter, 1759?-89)とはオランダ出身のクラヴィア奏者で、教師としても人気があったので、モーツァルトにとっては打ち負かしておかなければならない競争相手であったろう。 さかのぼれば、3月3日の父宛ての手紙にはウィーンの貴族邸で毎日のように個人演奏会を開いていることを誇らしげに書いている。柴田治三郎編訳「モーツァルトの手紙(下)」岩波文庫 p.103
どうしてこのような個人演奏会がたちまち出来るようになったか、早急にお話ししておく必要があります。 クラヴィーアの先生リヒターが、同じサロンで、土曜日に連続六回のコンサートを開いています。 貴族たちは、ぼくが演奏しないなら行きたくはない、と言いながら予約しました。 リヒター氏は、ぼくに弾くように頼んできました。 ぼくは三回弾くことを約束しました。また、3月20日の手紙には自分の演奏会に予約した174人の名前を列記し、海老沢・高橋編訳「モーツァルト書簡全集V」白水社 p.455
これが私の予約者全部のリストです。 私一人で、リヒターとフィッシャーを合わせたよりも、30人分も多く予約を取りました。と、勝利宣言しているようである。 この予約演奏会の初回(3月17日)では新作「第14番 変ホ長調 K.449」(自作目録第1番)を発表し、「非常に喜ばれ、どこへ行ってもこの発表会を誉めているのが聞かれます」と父に報告している。 次の「第15番 変ロ長調 K.450」は3月24日に発表され、大きな喝采を受けたのであった。 そして、この「第16番 ニ長調 K.451」は3月31日にトラットナー邸で初演された。 ウィーンにいては、モーツァルトにかなわないと思ったのか、リヒターはオランダに帰ることになった。 モーツァルトは4月28日の手紙で父に柴田訳「手紙(下)」 p.100
ピアニストのリヒターが、周遊旅行をして母国のオランダへ帰ります。 リンツのトゥーン伯爵夫人へ手紙を託しましたが、ザルツブルクへも行ってみたいそうですから、お父さんへも、ほんの四行ほど書いて持たせました。と書いているが、競争相手が一人減ったことによる安堵からか、続けて
この人は演奏はと言えば、それは沢山演奏します。 しかし、お聴きになれば分かりますが、粗雑で、重っ苦しく、趣味も感情もさっぱりありません。柴田訳「手紙(下)」 p.102
そのくせ、またとない善良な人間で、高慢なところはこれっぽちもありません。 私が弾いてみせると、じっと私の指を見ていて、それからいつも言います。 「何てことだろう! 私は汗をかくほど努力して弾くのに、ちっとも喝采を受けない。 ところがあなたは、まるで遊んでいるようだ」と伝えている。 さらに返す刀で
私は言いました。 「そうです。私も大いに努力しなければなりませんでした。 その結果、今ではもう努力せずにすむようになったのです」
ともかく、あの人はやはりすぐれたピアニストの仲間に入る一人です。 それに誠実な、いい男です。同書 pp.102-103
大司教は多分、むしろ私に対する腹立ちから、あの人の演奏を聴くだろうと思います。 その腹立ちは、私にとっては願ってもないことですが。と続け、余裕のあるところを見せている。 とにかく、作曲家であり類い稀な演奏家でもあったモーツァルトがウィーンで成功するためには、ピアノ協奏曲の新作を次々と発表していくことが最も手っ取り早い道だったであろう。 そしてその結果として、1784年から1786年までの3年間に12曲以上の傑作が生み出され、ピアノ協奏曲というジャンルがモーツァルトによって確立されたことにもなる。 この曲はその3番目に位置し、同時に自作目録の第3番に記載されている。 3月31日に初演。 前曲の第15番 K.450 ほど難曲ではないが、その1週間後に書かれたこの第16番ニ長調ではさらに大規模な楽器編成をとり、交響曲風のピアノ協奏曲を本格的に追求し始めたものとみなされている。同書 p.103
モーツァルトは5月15日に4曲のピアノ協奏曲(K.449、K.450、K.451、K.453)をザルツブルクの父へ送っている。 それが届いたという父からの知らせを受取り、さらにモーツァルトが書いた手紙が5月26日の「リヒター氏がそんなに誉めていた協奏曲は・・・」になるのだが、その手紙は
いま届いたお手紙で、ぼくの手紙と楽譜を確かに受け取ったとの知らせをいただきました。 お姉さんにも手紙のお礼を言います。 時間の許すかぎり、お姉さんにも必ず返事を書きます。 それまではお姉さんに言わせておきましょう。 リヒター氏が協奏曲の調を間違えたか、さもなきゃ、ぼくが彼女の手紙で文字を読み違えたか、そのどちらかだって。 リヒター氏があんなに絶賛していた協奏曲は・・・と書き始められている。 姉ナンネルに手紙を直接書き送る時間的余裕がなかったらしく、さらに6月9日の父への手紙に海老沢・高橋編訳「書簡全集V」 p.507
でも、どうかお姉さんに伝えてください。 どの協奏曲にもアダージョがなくて、アンダンテばかりだって。 ニ長調協奏曲のアンダンテの、ハ長調のソロの部分にも、書き加えるべきものがあることは、まさに確かです。 できるだけ早くそれを書いて、カデンツァと一緒にお姉さんに送りましょう。と書いている。 第2楽章の第56〜63小節のあたりについて、姉ナンネルが何かもの足りないと指摘したことに対する返答であると思われる。 余談になるが、8月23日、ナンネルは母の故郷であるザンクトギルゲンでゾンネンブルクと結婚した。「書簡全集V」 p.512
初版は1785年頃、パリのボワイエから出された。 1786年8月8日には、この曲を含む4曲(K.451、K.453、K.456、K.459)の写譜をヴィンターを介してフォン・フュルステン侯に提供した。 ヴィンター(Sebastian Winter, 1744-1815)はモーツァルト家の従僕であったが、1764年に生れ故郷のドナウエッシンゲンに帰り、フォン・フュルステン侯ヴェンツェルに仕えていた。 自筆譜とカデンツァ(第1と第3楽章の)はベルリンDeutsche Staatsbibl.にあったが、現在は不明。 ナンネルが写譜したカデンツァがザルツブルクの聖ペテロ大修道院に残されてあるという。
■演奏
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CD[EMI CE28-5303] t=24'29 バレンボイム (p) 指揮イギリス管弦楽団 1973年 |
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