Mozart con grazia > ピアノ協奏曲 >
17
age
61
5
62
6
63
7
64
8
65
9
66
10
67
11
68
12
69
13
70
14
71
15
72
16
73
17
74
18
75
19
76
20
77
21
78
22
79
23
80
24
81
25
82
26
83
27
84
28

85
29
86
30
87
31
88
32
89
33
90
34
91
35
92

ピアノ協奏曲 第16番 ニ長調 K.451

  1. Allegro assai ニ長調 4/4 協奏的ソナタ形式
  2. Andante ト長調 2/2 ロンド形式
  3. Allegro di molto ニ長調 2/4 ロンド形式
〔編成〕 p, fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1784年3月22日 ウィーン
1784年3月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
293031



ウィーンで独立し精力的に活動し始めた28歳のモーツァルトは自作目録を作り始めた。 それを見てもわかるように、自分自身の演奏会用にピアノ協奏曲を立て続けに作曲していて、この協奏曲はその自作目録の第3番になる。 トラットナー邸のサロンで催された彼自身の3回目の演奏会(3月31日)のために書かれた。 第2回目の演奏会(3月24日)用に書かれた前曲の第15番 K.450 ほど難曲ではないが、その1週間後に書かれたこの第16番ニ長調ではさらに大規模な楽器編成をとり、交響曲風のピアノ協奏曲を本格的に追求し始めたものとみなされている。

モーツァルトは5月15日に4曲のピアノ協奏曲(K.449、K.450、K.451、K.453)をザルツブルクの父へ送っている。 それが届いたという父からの知らせを受取り、モーツァルトは次の返事を書いている。

1784年5月26日
リヒター氏がそんなに誉めていた協奏曲は変ロ長調のものです。 これは私が作ったものの中でも一番いいもので、その当時もあの人はそう言って誉めました。 私はこの二つのうち、どっちを択っていいか分かりません。 二つとも、ひと汗かかせる協奏曲だと思います。 でも、むずかしさという点では変ロ長調の方がニ長調以上です。 ともかく、変ロ長調、ニ長調、ト長調の三つの協奏曲のうち、どれがいちばんお父さんと姉さんのお気に召すか、是非知りたいものです。
[手紙(下)] p.103
これに対する父と姉からの回答はないが、姉ナンネルはこの曲(K.451)の第2楽章の第56〜63小節のあたりについて、何かもの足りないと指摘した。 モーツァルトはザルツブルクの父へ
1784年6月9日
でも、どうかお姉さんに伝えてください。 どの協奏曲にもアダージョがなくて、アンダンテばかりだって。 ニ長調協奏曲のアンダンテの、ハ長調のソロの部分にも、書き加えるべきものがあることは、まさに確かです。 できるだけ早くそれを書いて、カデンツァと一緒にお姉さんに送りましょう。
[書簡全集 V] p.512
と書き送っている。 カデンツァは第1楽章に36小節、第3楽章に48小節用意されていた。 余談になるが、8月23日、ナンネルは母の故郷であるザンクトギルゲンでゾンネンブルクと結婚し、ザルツブルクを離れていた。 レオポルトは息子から送られてきた自筆譜や追加されたカデンツァ類を娘の手に渡していたが、それらを返却することを求めている。
1784年10月9日以降、レオポルトからザンクト・ギルゲンの娘に
この手紙はすでに9日付けで書かれていて、私が旅行に出かけたすぐ後に着いていました。 だからできるだけ早い機会に、ト長調の協奏曲を私に送り返して下さい。 そうすれば急いで写譜させることができます。
さしあたり、おまえはニ長調のコンチェルト用のカデンツァを自分で書き写し、それを私のほうへ配達人に頼んで送って下さい。 おまえはとにかくそうすれば、自分の書いたものを手もとにも置けるし、さもなければ、弟の手書きのものを取っておいてもよいのです。 同じことです。
同書 p.559
父の言うことに従順なナンネルは写譜したのち自筆譜を送り返したが、彼女が写したカデンツァがザルツブルクの聖ペテロ大修道院に残されてある。 なお、同教会はナンネルがみずから永眠することを決めていたところでもある。 また、父が写したカデンツァと第2楽章の一部(第56〜63小節)の譜面も同教会に残されている。 しかし残念ながら、モーツァルトの自筆譜は行方不明。

モーツァルトは4曲のピアノ協奏曲(K.449, 450, 451, 453)を1784年5月15日にザルツブルクの父に送っていたが、それらはウィーンでの個人演奏会での大事な収入源であったので、他人の手に渡ることを恐れていた。 また同時にそれらはピアノ協奏曲というジャンルにおける革新的な作品であり、モーツァルトにとって自信作でもあった。 作品の価値を見抜ける演奏者はそうザラにはいないなかで、父と姉は優れた耳をもっていたので、モーツァルトは二人の感想あるいは意見を聞きたがっていた。

1784年5月26日、ウィーンからザルツブルクの父へ
差し当たって3つの大協奏曲だけについて言うのですが、あなたの判断が当地の一般の判断や、そしてぼくの判断とも一致しているかどうか、知りたくてたまりません。 むろん、3曲とも、完全な編成で、しかも良い演奏で聴いての話ですが。 それらの楽譜が再びぼくの手に戻るまで、喜んで我慢しましょう。 ただ、誰の手にも渡さないでくださいね。 いますぐにも、1曲24ドゥカーテンで売れたでしょうから。 でも、ぼくとしては、あと2、3年も手もとに持っていて、それから印刷させて広めれば、もっと有利になると思います。
同書 pp.507-508
このような将来設計のもとで自作目録が作られることになったのだろう。 ただし生前に出版されたのはこのニ長調 K.451 だけで、その初版は1785年頃、パリのボワイエから出された。 また、1786年8月8日には、この曲を含む4曲(K.451、K.453K.456K.459)の写譜をヴィンターを介してフォン・フュルステン侯に提供している。
その際、モーツァルトはコピストに新たに筆写譜をつくらせてそれを売るのではなく、トレークがヴィーンで販売していた当該作品の筆写譜を入手し、それを相場より高い値段で侯爵に転売する、という方法をとったといわれている。
[西川] p.204
モーツァルトは世事に疎く金銭感覚のない芸術家ではなかった。 音楽界で成功し名声を高めるために「出版社とのビジネスが信頼のおける安定した追加収入源になってゆくと見込んでいた」(ヴォルフ)のであり、そうした印刷物を利用し、収入を得ることは彼にはごく当たり前のことだったと思われる。 よく知られているように、彼は自作目録を作るだけでなく支出簿もつけ始めているが、これも彼が経済に無頓着ではなかった証拠である。
なお、ヴィンター(Sebastian Winter, 1744-1815)はモーツァルト家の従僕であったが、1764年に生れ故郷のドナウエッシンゲンに帰り、フォン・フュルステン侯ヴェンツェルに仕えていた。

1791年、モーツァルト死の直後、このピアノ協奏曲はライン河畔の町シュパイアーのボスラーから出版されたが、それは作曲家自身が出版を意図し、主導していたものの一つであったという。

その時の批評には、ニ長調の協奏曲は充実した響きを持ち、高度な演奏技法を要求しているが、非常に美しくて華やかであると絶賛したのち、楽器編成が大規模であり、強力なオーケストラを必要とするので、小さな音楽的サークルでは演奏できないのが残念である、と書かれている。
[事典] p.406

〔演奏〕
CD [EMI CE28-5303] t=24'29
バレンボイム (p) 指揮イギリス管弦楽団
1973年

〔動画〕

〔参考文献〕


Home K.1- K.100- K.200- K.300- K.400- K.500- K.600- App.K Catalog

2018/11/18
Mozart con grazia