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K.450 ピアノ協奏曲 第15番 変ロ長調

  1. Allegro 変ロ長調 4/4
  2. Andante 変ホ長調 3/8 変奏形式
  3. Allegro 変ロ長調 6/8
編成 p, fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, va, bs
作曲 1784年3月15日 ウィーン

ウィーンで独立し精力的に活動し始めた28歳のモーツァルトは自作目録を作り始めた。 それを見てもわかるように、自分自身の演奏会用にピアノ協奏曲を立て続けに作曲していて、この協奏曲はその自作目録の第2番になる。 彼自身の2回目の演奏会(3月24日)のために書かれた大編成のオーケストラで演奏する曲で、当然のことながら技巧的にも難しい。 モーツァルトはザルツブルクの父への手紙(1784年5月26日)で次のように書いている。

リヒター氏がそんなに誉めていた協奏曲は変ロ長調のものです。 これは私が作ったものの中でも一番いいもので、その当時もあの人はそう言って誉めました。 私はこの二つのうち、どっちを択っていいか分かりません。 二つとも、ひと汗かかせる協奏曲だと思います。 でも、むずかしさという点では変ロ長調の方がニ長調以上です。 ともかく、変ロ長調、ニ長調、ト長調の三つの協奏曲のうち、どれがいちばんお父さんと姉さんのお気に召すか、是非知りたいものです。
[手紙(下)] p.103
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ここで「二つ」と言っているのは、この第15番変ロ長調と、次の第16番ニ長調 K.451 のことであり、「三つ」と言うのは、この二つに第17番ト長調 K.453 を加えたものである。 また、リヒター氏(Georg Friedrich Richter, 1759?-89)とはオランダ出身のクラヴィア奏者で、教師としても人気があったので、モーツァルトにとっては打ち負かしておかなければならない競争相手であったろう。 さかのぼれば、3月3日の父宛ての手紙にはウィーンの貴族邸で毎日のように演奏会を開いていることを誇らしげに書いている。 この月の演奏会は以下の通りである。 さらに4月の演奏会へと続くが、父の疑問を先取りして説明している。
どうしてこのような個人演奏会がたちまち出来るようになったか、早急にお話ししておく必要があります。 クラヴィーアの先生リヒターが、同じサロンで、土曜日に連続六回のコンサートを開いています。 貴族たちは、ぼくが演奏しないなら行きたくはない、と言いながら予約しました。 リヒター氏は、ぼくに弾くように頼んできました。 ぼくは三回弾くことを約束しました。
[書簡全集 V] p.455
こうして毎週水曜日に(計3回)トラットナー邸のサロンで予約演奏会が開かれることになった。 ちなみに、トラットナー夫人マリア・テレージア(22歳)は1781年からモーツァルトのピアノの生徒(最初の弟子)であり、この年の5月20日には彼女のために「ピアノ幻想曲ハ短調K.475」を作曲している。

さらにモーツァルトは、父宛ての3月20日の手紙には自分の演奏会に予約した174人の名前を列記し、

これが私の予約者全部のリストです。 私一人で、リヒターとフィッシャーを合わせたよりも、30人分も多く予約を取りました。
[手紙(下)] p.100
と、勝利宣言している。 この予約演奏会の初回(3月17日)では新作「第14番 変ホ長調 K.449」(自作目録第1番)を発表し、「非常に喜ばれ、どこへ行ってもこの発表会を誉めているのが聞かれます」と父に報告している。 そして、この「第15番 変ロ長調 K.450」は3月24日に発表され、大きな喝采を受けたのであった。 ウィーンにいてはモーツァルトにかなわないと思ったのか、リヒターはオランダに帰ることになった。 モーツァルトは4月28日の手紙で父に
ピアニストのリヒターが、周遊旅行をして母国のオランダへ帰ります。 リンツのトゥーン伯爵夫人へ手紙を託しましたが、ザルツブルクへも行ってみたいそうですから、お父さんへも、ほんの四行ほど書いて持たせました。
この人は演奏はと言えば、それは沢山演奏します。 しかし、お聴きになれば分かりますが、粗雑で、重っ苦しく、趣味も感情もさっぱりありません。
[手紙(下)] p.102
と書いているが、競争相手が一人減ったことによる安堵からか、続けて
そのくせ、またとない善良な人間で、高慢なところはこれっぽちもありません。 私が弾いてみせると、じっと私の指を見ていて、それからいつも言います。 「何てことだろう! 私は汗をかくほど努力して弾くのに、ちっとも喝采を受けない。 ところがあなたは、まるで遊んでいるようだ」
私は言いました。 「そうです。私も大いに努力しなければなりませんでした。 その結果、今ではもう努力せずにすむようになったのです」
ともかく、あの人はやはりすぐれたピアニストの仲間に入る一人です。 それに誠実な、いい男です。
同書 pp.102-103
と伝えている。 さらに返す刀で
大司教は多分、むしろ私に対する腹立ちから、あの人の演奏を聴くだろうと思います。 その腹立ちは、私にとっては願ってもないことですが。
同書 p.103
と続け、余裕のあるところを見せている。 毎日のように演奏会をこなしながら、そのために必要な曲を用意しつつ、モーツァルトは成功を実感していた。 彼の人生でもっとも充実した期間であったかもしれない。 5月1日には「すずらん2本」を買うなど、忙しいながらも生活を楽しんでいたようである。 さて一方で、かつての競争相手のリヒターがザルツブルクに立ち寄り、演奏を披露するのに備えてか、5月15日に第14番から第17番までの4曲をザルツブルクの父に送っている。
4曲の協奏曲については(家で、あなたのそばで写譜をしてもらうよう)お願いします。 ザルツブルクの写譜屋は、ヴィーンよりも信用できませんからね。
[書簡全集 V] p.504
と念を押している。 演奏会は大事な収入源であり、自分がもっとも得意とするピアノ作品が他人の手に渡ってしまうことを心配していたからであり、その点では父レオポルトは(さらに姉ナンネルも)まったく信頼できる存在であったが、モーツァルトは何度も「他人に渡さないでください」と繰り返していた。 さて、このときのリヒターの演奏を聴いた父レオポルトと姉ナンネルの感想がわからないので残念だが、姉にちょっとした勘違いがあったようである。 それがこのページの冒頭で引用した5月26日の手紙から垣間見れる。
いま届いたお手紙で、ぼくの手紙と楽譜を確かに受け取ったとの知らせをいただきました。 お姉さんにも手紙のお礼を言います。 時間の許すかぎり、お姉さんにも必ず返事を書きます。 それまではお姉さんに言わせておきましょう。 リヒター氏が協奏曲の調を間違えたか、さもなきゃ、ぼくが彼女の手紙で文字を読み間違えたか、そのどちらかだって。 リヒター氏があんなに絶賛していた協奏曲は、変ロ長調のものです。
[書簡全集 V] p.504

とにかく、作曲家であり類い稀な演奏家でもあったモーツァルトがウィーンで成功するためには、ピアノ協奏曲の新作を次々と発表していくことが最も手っ取り早い道だったであろう。 そしてその結果として、1784年から1786年までの3年間に12曲以上の傑作が生み出され、ピアノ協奏曲というジャンルがモーツァルトによって革新的に確立されたことにもなる。 ザスローは次のように解説している。

モーツァルトは協奏曲の新しい理念に到達していた。 それは、オーケストラがただフォルテピアノの伴奏をするだけでなく、同等の比重をもつという考え方である。 17世紀後期から18世紀初頭にかけて管楽器に託されていた役割(弦楽器に重複する、あるいは弦楽器に交唱的に応答する)、および18世紀半ばに要求された役割(トゥッティが保続する和音に和声的背景を与える)に加えて、第3の可能性が加わった。 それは、作品の主題展開を他声部と対等なかたちで受けもつということである。 この方法は「durchbrochene Arbeit 透かし彫り」(英語で言うと「openwork 透かし細工」「filigree 金線細工」)と呼ばれ、19世紀のオーケストレーションの基礎となった。
[全作品事典] p.171
その最初に位置するのが、2月9日に作られた「第14番 変ホ長調 K.449」であったが、しかしモーツァルト自身の言葉によれば
変ホ長調のは、まったくこの種のものではありません。 これはまったく特殊なジャンルの協奏曲で、大編成よりは小編成のオーケストラのために書いています。
[書簡全集 V] p.507
ということで、そのわずか1ケ月あまり後に作られたこの「第15番 変ロ長調 K.450」が大規模な管弦楽を伴う革新的なピアノ協奏曲の始まりとなる。 そして、短期間で量産された大規模な3つの協奏曲(3月15日の変ロ長調 K.450、3月22日のニ長調 K.451、4月12日のト長調 K.453)について、アインシュタインは「1788年の3曲のシンフォニー(K.543, 550, 551)の奇蹟に少しも劣らない、生産力の奇蹟である。というのは、これらの曲はすべて違いにありうるかぎり異なっているからである」と驚嘆している。

この第15番変ロ長調についてオカールは次のように評している。

第1楽章はこれらの協奏曲すべてのうちで最も晴れやかであり、その落ち着いた陽気さは環回し遊び(円陣をつくって綱を通した環をすばやく回し、円のなかの鬼が環を持っている人を当てる)の歌のような快活さとユーモアから成っている。
逆説めいた言い方だが、公然たる孤独と呼んでもよいようなものに負う、控え目だがけっして弱々しくない内省が凝縮されているのは、当然ながら中間楽章においてである。 K450のアンダンテはすでに『魔笛』の第2幕の雰囲気を示している。
とはいえ、これらの協奏曲の区切り方を瞑想的なアンダンテがはめ込まれた、きらびやかな額といった単純な図式に還元してはなるまい。 メロディーの開花は緩徐楽章だけのものではなく、豊かな独創がいたるところにあふれているのだ。 当然のことながら、フィナーレが最も饒舌である。 K450では水を浴びているイルカのような優しく激しい自在さがあるといったふうだ。
[オカール] pp.97-98
第2楽章アンダンテは夢見るモーツァルトの真骨頂を発揮している。 アインシュタインは
第2楽章は単純なリート・メロディーの単純な変奏曲からできており、その反復は独奏とオーケストラに分担され、自由な終結を持っている。
[アインシュタイン] p.410
と簡単に解説しているが、しかしたったそれだけのことでうっとりするような至福のひとときを味わうことができるのは奇蹟と言っても過言ではない。 フルートはその軽快な第3楽章のみで使用されているが、この曲により豊かな色彩を与えている。
自筆譜はワイマールのLands-Bibl.にある。 第1楽章のカデンツァの所在は不明、第2楽章の自筆カデンツァとアイガングはニューヨークのY.Geist夫人が所有という。

演奏
CD [EMI CE28-5303] t=25'29
バレンボイム (p) 指揮イギリス管弦楽団
1968年
CD [TELDEC WPCS-10101] t=24'39
エンゲル (p), ハーガー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム
1977年
 
引用文献


 

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2011/02/27
Mozart con grazia