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ピアノ協奏曲 第18番 変ロ長調 K.456

  1. Allegro vivace 変ロ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante un poco sostenuto ト短調 2/4 変奏形式
  3. Allegro vivace 変ロ長調 6/8 ロンド形式
〔編成〕 p, fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1784年9月30日 ウィーン
1783年8月




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モーツァルトの変ロ長調のピアノ協奏曲第18番(自作目録には第8番に記載)にあたるこの曲は、ウィーンの盲目のピアニスト、マリア・テレージア・フォン・パラディス(Maria Theresia von Paradis, 1759-1824, 当時25才)のために作曲された。 彼女は3歳のとき視力を失ったが、ピアノとオルガンの奏者として、また歌手として活躍し、1774年からマリア・テレジア女帝により年金を支給されていた。 1783年に母に付き添われて中部ヨーロッパ、パリ、ロンドン、ブリュッセル、ベルリンへ演奏旅行を企て、途中8月にザルツブルクに寄ったときモーツァルトとの出会う(再会?)機会が生まれたのである。 よく知られているようにモーツァルトは新妻コンスタンツェを伴って7月末から10月27日まで帰郷していた。 ナンネルの日記によると、「8月27日、パラディース夫人と目の見えない彼女の娘さんが来訪」とある。 たぶんそのときモーツァルトに演奏旅行用の作品を注文したのだろう。

パラディス嬢はピアニストとしてはレオポルト・コゼルフ(モーツァルトの宿敵)の弟子であり、そんな相手に作曲したことについてアインシュタインは

モーツァルトが宿敵の女弟子のために、しかも彼女がちょうど1784年秋、演奏旅行に出かけていったパリでの上演のために、新しいコンチェルトを1曲書いたということは、彼の無頓着、あるいは無関心を物語る事実である。 パリで演奏するにはコーツェルーフの60曲のコンチェルトではたしかに不十分だった。
[アインシュタイン] p.412
と評している。 第2楽章は主題と5つの変奏で構成されているが、2年後のオペラ『フィガロ』第4幕バルバリーナのカヴァティーナ(ヘ短調)を予見させるフランス風の主題(ト短調)と変奏があるのが特徴的である。 それはこの協奏曲を自作目録に記入する前日(1784年9月29日)にモーツァルトは引越し、新しい住居(下の写真の2階)でオペラ『フィガロの結婚』の作曲に意欲的に取り組み始めたことと関係があるのだろう。 この住居はのちに「フィガロ・ハウス」と呼ばれることになった。 父レオポルトもウィーンで活躍する息子を見るため1785年2月11日から4月25日までこの住居に滞在していた。

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レオポルトのウィーン訪問中の2月13日、ブルク劇場での演奏会で息子がこの曲を弾くのを聴く機会があった。 そのときの様子をレオポルトはザルツブルクにいる娘ナンネルに手紙を書いている。

ウィーン、1785年2月16日
日曜日の晩には、劇場でイタリアの歌手ラスキの音楽会がありました。 彼女はもうイタリアに旅立ちます。 彼女はアリアを2曲歌いましたが、チェロ協奏曲が1曲あり、テノールとバスがそれぞれアリアを1曲、それにおまえの弟はパリ用にとパラディスのために作った見事な協奏曲を一つ弾きました。 私はたいそうお美しいヴュルテンベルク公爵令嬢から後ろに二つほどロージュを隔てていただけで、楽器の交替はすべてものすごくよく聞き分けられるという満足が得られたので、この満足感で目に涙が溢れたものでした。
おまえの弟が退場すると、皇帝は手にお持ちの帽子で挨拶を送ってくださり、「ブラヴォー、モーツァルト」とお叫びになられました。 あの子がクラヴィーアを弾くために出てくると、もちろんみんなが拍手喝采を送ってくれました。
[書簡全集 VI] p.38
レオポルトが感激の涙を流したのはこの作品の素晴らしさに対してでなく、ウィーンの高貴な人たちが列席する息子の演奏会に自分も同席できたことからだろう。 そのような聴衆のために、モーツァルトは緩徐楽章に短調の哀感をそそるような変奏曲を用意している。

さらに時代が下って1786年8月、モーツァルトはこの曲を含む5曲のピアノ協奏曲(K.451K.452、K.456、K.459K.488)の筆写譜をフォン・フュルステンベルク侯に渡した。 自筆譜は元マルブルク西ドイツ図書館にある。 自筆譜には作曲の日付が書かれていないという。 また、第1と第3楽章には自筆カデンツァがあるはずだが、現在その所在は不明だという。

余談であるが、1777年にパラディス嬢(18歳)は当時ウィーンの著名な医者メスマーの治療を受けた。 彼の治療にはグラスハーモニカを演奏して聞かせることも含まれていたという。 その楽器の神秘的な音色から、グラスハーモニカは「人を狂気にさせる楽器」と言われ、使用禁止とされていたがメスマーは従わず、またパラディス嬢の治療に失敗したため、彼は追放され、1778年にウィーンを離れた。

〔演奏〕
CD [TELDEC WPCS-10102] t=30'07
エンゲル (p), ハーガー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム
1974年
CD [CBS 38CD51] t=29'03
ペライア (p) 指揮イギリス室内管弦楽団
1981年頃

〔動画〕

〔参考文献〕


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2016/05/22
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