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カンタータ 「悔悟するダヴィデ」 K.469

〔編成〕 2 S, T, SATB, 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 tp, 3 tb, timp, 2 vn, va, vc, bs, or
〔作曲〕 1785年3月 ウィーン
1785年3月

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1771年に音楽家たちの未亡人や孤児のために設立されたウィーン音楽芸術家協会(スヴィーテン男爵の功績による。のちの「ウィーン楽友協会」の前身)のために。 1781年3月24日の手紙で、父に

ご存じのように、ここには音楽家の未亡人たちのために発表会をする一つの協会があります。 およそ音楽家と称する者はだれでも、そこでは無料で演奏します。 オーケストラは180人です。 どんな名演奏家でも、隣人愛を少しでももっているなら、この協会から頼まれれば、出演を断りません。 そうすることによって、皇帝にも聴衆にも人気を博すことになるからです。
[手紙(下)] pp.238-239
と書いているように、ウィーンで音楽家としての確固たる地位を得ようとしていたモーツァルトは、1785年3月13日ブルク劇場で催される演奏会のために新作オラトリオを作曲しようとしていた。 ただし、この頃モーツァルトは作曲だけでなく演奏の方でも大活躍中であり、新たに大作を書き上げる余裕はなかったようである。 そこで直前に作曲してあった未完の「ハ短調ミサ」(K.427)を改作することにした。 そのミサ曲はザルツブルクで披露されたものだから、ウィーンの聴衆には新作として通用すると考えたものと思われる。 実はモーツァルトはこの年1月に協会に対して新しい声楽曲を書く約束をし、2月11日には会員になる申し込みをしていたところ、保留になっていたこともあり、大急ぎで2曲の新たなアリア(第6、8曲)を加え、新しく楽譜を作ることもせず、ハ短調ミサ曲のスコアに書き込みして間に合わしたのだった。
  1. 合唱「私は弱々しい声で主を呼びました」 Andante moderato ハ短調
    Coro : Alzai le flebili voci
  2. 合唱「神の栄光を歌おう」 Allegro vivace ハ長調
    Coro : Cantiam le glorie
  3. アリア「不毛の悩みは遠ざかり」 Allegro aperto ヘ長調
    Aria Soprano II : Lungi le cure ingrate
  4. 合唱「神よいつまでも優しくしてください」 Adagio イ短調
    Coro : Sii pur sempre
  5. 二重唱「主よ、立って敵を追い払ってください」 Allegro moderato ニ短調
    Duetto Soprano I & II : Sorgi, O Signore
  6. アリア「数知れぬ悩みの中で」 Andante 〜 Allegro 変ロ長調
    Aria Tenore : A te, fra tanti affanni
  7. 合唱「もしお望みなら私を罰してください」 Largo ト短調
    Coro : Se vuoi, puniscimi
  8. アリア「暗い、不吉な闇の中から」 Andante 〜 Allegro ハ短調〜ハ長調
    Aria Soprano I : Fra l'oscure ombre funeste
  9. 三重唱「私はすべての希望を神に託しました」 Allegro ホ短調
    Terzetto : Tutte le mie speranze
  10. 合唱「神のみに望みをつぐなう者には」 Adagio ハ長調
    Coro : Chi in Dio sol spera
自作目録によると、その第6曲(アダムベルガーのために)は3月6日に、第8曲(カヴァリエリのために)は11日に作られ、どちらも「協会のための音楽」と記入されている。 こうして3月13日、音楽芸術家協会のための大演奏会の例会が催された。
アマデーウス・モーツァルト氏のこの時期に相応しい全く新しいカンタータ、合唱は三声部、カヴァリエリ、ディストラー、アーダムベルガーが主要アリアを歌う。
[ドイッチュ&アイブル] pp.175-176
ミサ曲はラテン語、このカンタータはイタリア語の歌詞であり、モーツァルトはテクストの韻律を訂正しなければならなかった。 イタリア語の歌詞の作者は明らかでない。 いろいろな状況からダ・ポンテによるものと推測されている。
1785年3月、モーツァルトは四旬節中の音楽家組合演奏会の一つに、一曲の作品をたずさえて参加し、この『アカデミー』の後半を音楽で満たさねばならなくなった。 彼はそのためにこのハ短調ミサ(K.427)のキュリエとグローリアを転用した。 神聖なラテン語は敬虔なイタリア語に変り、ミサ曲はオラトリオ Davidde penitente (K.469) すなわち『悔悟せるダヴィデ』に変った。 誰がテクストをつけたかは知られていない。 とはいえ、この仕事はモーツァルトとの最も緊密な協力によってのみ行ないえたのであり、したがってモーツァルトが当時ずっと以前から知り合っていたイタリア・オペラの台本作者、ダ・ポンテのことが容易に考えられるのである。
[アインシュタイン] p.473
ブレッチャッハーも、当時のウィーンにおける状況を考察し
われわれはダ・ポンテが司祭としての教育を受けたおかげでダヴィデ詩篇に造詣が深く、ヘブライ語に堪能で、おそらくオリジナルの詩も知っていた点を、推測の出発点にできる。 その上ダ・ポンテは、ウィーンを去る直前、1791年3月に『ダヴィデ』の題で、さまざまな音楽で構成された舞台用オラトリオ台本を出版した。 そのなかにモーツァルトの『悔悛するダヴィデ』の部分も数ヶ所あると考えられる。 残念ながら用いられた音楽についてはその本には書かれていない。
[ブレッチャッハー] p.170
と、従来のダ・ポンテ説を支持している。
ありとあらゆる但し書き付きの仮定を支える堅固な証拠を認めるなら、ハ短調ミサからカンタータ『悔悛するダヴィデ』への改作は、モーツァルトとダ・ポンテの最初の共作と言われる『フィガロ』以前の作品であったことになる。
同書 p.171
この改作について、アインシュタインは「ダ・ポンテは、もし彼がテクスト作者であったとするなら、いつものようにすこぶる如才なく難局を切り抜けたのではあるが、それでもこの『悔悟せるダヴィデ』ははなはだしく分裂した作品になってしまった」という。 すなわち、「同じ音符であっても、『主よ、憐れみ給え』と『キリストよ、憐れみ給え』の言葉で鳴り響くのと、『諸悪に抑圧されて』という歌詞で鳴り響くのてでは、まさに相違がある」ということであるが、その「はなはだしく分裂した」という印象を別の言葉に言い換えると
全体的な効果としては、偉大な踊り手が体に合っていないお下がりの服を着て、優雅に跳躍するさまを見ているようである。
[全作品事典] p.52
いうことであろうか。

ところで、この作品は曲名に反して、歌詞の中に「ダヴィデ」は一度も現れない。 主に救いを求める者の名前は明らかでないのである。 にもかかわらず、この曲が『悔悟するダヴィデ』あるいは『悔悛するダヴィデ』というのは、当時の台本にこのような内容の詩編がかなり見られるからだという。 そして、ダ・ポンテが「ダヴィデ」を扱った詩編を書いていたことも知られ、それがこの作品の作詞者であると推測する根拠にもなっている。

3月13日ブルク劇場で行なわれた初演(モーツァルト自身が指揮をした)では、モーツァルトお気に入りのテノールのアダムベルガー(45歳)とソプラノのカヴァリエリ(30歳)のほかに、ハイドンの弟子で当時16歳のエリザベト・ディストラー(Elisabeth Distler, 1769-90)が起用された。 アダムベルガーとカヴァリエリはオペラ『後宮からの誘拐』(K.384)の初演(1782年7月16日)で、それぞれベルモンテ役とコンスタンツェ役をしている。 またエリザベトはのちにシュトゥットガルト礼拝堂の楽長となったヨハン・ゲオルグ・ディストラー(Johann Georg Distler)の妹。 なお、この興行での入りはあまり良くなかったらしいが、それでも700フローリンを越える収益があったという。 それを成功と見るかどうかは意見が分かれるようで、ド・ニは

このダヴィデ王の改悛を扱ったオラトリオは非常な成功を見せたらしく、1週間後に再演されている。
(中略)
このオラトリオがウィーンで演奏されたとき、非常にうまくいったことはわれわれがよく知っているのである。
[ド・ニ] pp.119-120
と評価している。 しかし733フローリン13クローネの収益のうち216フローリン40クローネは皇帝からの寄付であり、協会が催した演奏会のうち最も聴衆が少ないもの(660人)だったということ、さらに1週間後の再演では収入が4分の1であったことから、成功だったかどうかの判断は何とも言い難く、大成功ではなかったことは確かのようである。 この演奏会の前半ではハイドンの新作の交響曲などが発表されたということも考慮に入れなければならないだろう。 ついでながら、この演奏会の3日前、3月10日ブルク劇場でモーツァルトは新作の「ピアノ協奏曲ハ長調」(K.467)を演奏発表したばかりだった。 そのときの収入は559グルテンだったという。 グルテンとフローリンは同じ価値。 のちにモーツァルトが宮廷作曲家になったとき、年俸は800グルテンだったが、それは家賃と同額で、彼自身が「僕の仕事に比べれば多すぎるけれど、僕の才能に比べれば少なすぎる」と語ったと伝えられている。

余談であるが、モーツァルトは「音楽芸術家協会」に入会を切望していた。 自分の死後、家族に年金が保証されることになるからであるが、厄介な問題が障害となって実現できなかった。 それは彼がウィーンに移住する際に出生証明書(洗礼証書)を持って来なかったからであった。 コンスタンツェとの結婚(1782年8月4日)の際には、その証明提出免除をウィーン警察に願い出て許可されていたが、音楽芸術家協会の規則は証明書の提出に厳格だった。 モーツァルトはザルツブルクの父に懇願することになる。

1784年2月20日
それから、もうひとつお聞きしたいことがあります。 ぼくの受洗証明書の、せめて写しでも手に入れるわけにはいかないでしょうか?
[書簡全集 V] p.119
その理由についてモーツァルトは父に嘘をついたようである。 すなわち、まわりの者が自分の年齢について疑問を持っているので、証明書を見せれば「みんなの口を一挙に封じることができる」というのだった。 そんな程度のことで送る必要はないとレオポルトは思っただろうし、勘の鋭い彼は息子が本心を隠していると見抜いたに違いない。
しかし一年経っても証明書は送られてこなかった。 1785年の2月、モーツァルトは正式に音楽協会に出願する。 しかし、モーツァルトがこの協会に貢献しているにもかかわらず、出生証明書の提出免除の措置はしてもらえなかった。 彼の願書は未決になったままであった。 「一つの理由は出生証明書がないためで、もう一つの理由は協会内での論議が解決するまで」であったが、その論議の内容はわかっていない。 1785年3月13日と15日には協会の基金集めのコンサートが行われ、モーツァルトの『悔悛するダヴィデ』が演奏された。 そのあとでモーツァルトは「出生証明書は到着次第提出する」という条件を付して、入会の願書を出しなおすのであるが、それに対する8月24日付の協会の返事は「出生証明書が提出された時点でもう一度決議をいたします」というものだった。
[ソロモン] p.442
ソロモンは、モーツァルトがコンスタンツェとの結婚のとき、自分の名前を「アマデ Amade」ではなく、「アダム Adam」で登録していることの謎に鋭い洞察を行っているが、それに関連してこの「出生証明書(洗礼証書)」問題にも明解な解答を示している。 ただし、モーツァルトの死後(葬儀の5日後)、未亡人となったコンスタンツェは皇帝レオポルト2世に年金請願書を提出し、266グルデンの年金支給を受けることができるようになっただけでなく、亡夫の作品を売ったり、演奏会を開いたりして多額の収入を得ることができたのはよく知られている。 1797年には、なんとあのドゥーシェク夫人に3500グルデンも(6パーセントの金利で)貸し付けるほどの金持ちになることができたのである。

〔演奏〕
CD [harmonia mundi BVCD-5002] t=47'02
ラーキ Krisztina Laki (S), ファリエン Nicole Fallien (S), ブロホヴィッツ Hans Peter Blochwitz (T), オランダ室内合唱団 Nederlands Kamerkoor, クイケン指揮 Sigiswald Kuijken (cond), ラ・プティット・バンド La Petite Bande
1985年4月
CD [UCCP-4061/70] t=45'18
マーシャル (S), フェルミリオン (S), ブロホヴィッツ (T), マリナー指揮シュットゥッツガルト放送交響楽団
1787年6月、ザルツブルク

〔動画〕

〔参考文献〕


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2014/09/14
Mozart con grazia