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ピアノ幻想曲 ハ短調 K.475

  1. Adagio ハ短調 〜 ニ長調
  2. Allegro 転調部
  3. Andantino 変ロ長調
  4. Piu Allegro 転調部
  5. Tempo primo ハ短調
〔作曲〕 1785年5月20日 ウィーン
1785年5月






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モーツァルトの最初の弟子といわれるフォン・トラットナー夫人に「作品第11番」として献呈。 その際、ピアノソナタ ハ短調 K.457 の前奏曲として出版された(1785年、ウィーン、アルタリア)ので、一緒に演奏されることが多い。

曲はテンポ変化で5つの部分から成り、何度も転調を続けながら、最後に冒頭のテンポと調性(Tempo primo)に戻る。 マリア・テレージアは、出版業者ヨハン・トーマス・フォン・トラットナーの後妻で、ウィーンにおけるモーツァルトの最初のピアノの生徒であり、この曲(ピアノソナタ K.457 とともに)を献呈されるに値する技量の持ち主だったのだろう。 ただ、彼女の実際の腕前については推測の域を出ない。

モーツァルトは、ソナタを演奏するとき、しばしば即興で導入を弾いていたことが記録に残っているが、当時の演奏慣行としてこのような即興的な試みがよく行われていたようだ。 モーツァルトにとってはこのような導入の即興は朝飯前だったろうが、トラットナー夫人にそこまで求めるのは無理だったことだろう。 モーツァルトは、夫人がサロンなどで『ハ短調ソナタ』を弾くときに、導入を弾いてソナタに続けることができるよう、この『幻想曲』を作曲してあげたのかもしれない。 そしてこの2曲は、通の愛好家向けの作品として、アルタリア社から出版されたと思われる。
[久元] p.119
モーツァルトは献呈者に手紙を送り、その中でこの曲の演奏方法について書いた(ニーメチュク伝)とされているが、その手紙は残念ながら失われてしまった。 そこには作曲者の意味深なメッセージが記されていたにちがいない。 それにしても、なぜ「ハ短調」という厳粛な調性を選んだのだろう。
楽譜の冒頭をごらんいたできましょう。 ハ短調の響きで開始しますが、譜表はハ短調の調号♭♭♭はなく、音楽は枠組みにとらわれずに進みます。 転調を重ね、緩急のテンポを繰り返し、あたかも憧れの対象を求めてさすらっているようです。 当時はハ短調について「愛の告白、あるいは愛する魂の渇望、苦悩・憧れ・ため息」といった説明がなされていましたが(シューバルト)、まさにこの言葉をあてはめたくなります。
[藤本] p.49
このような「さすらい」にあとに、決然とした意志を示すかのような「ハ短調ソナタ」(アインシュタインによれば「きわめて強い興奮の爆発」)が続くのである。 トラットナー夫人は作曲者の気持ちを理解したうえで演奏することができただろう。 アインシュタインは師弟の間のただならぬ関係を感じている。
このソナタと、そのまえにつけた『幻想曲』(K.475)の演奏に対する指示がかつては存在したのだが、失われてしまい、そのためモーツァルトの実践美学の最も重要な文書がなくなってしまったわけである。 もしかしたらこの指示のなかには、後世に示してはならない個人的な事柄が含まれていたのであろうか?
[アインシュタイン] p.339
この幻想曲は、「苦しい本気さ」が満たされた「ソナタ(K.457)の爆発力に根拠を与え、魂の特別な一状態の成果として是認しようという要求を感じた」ことから生まれたと考えるとき、「モーツァルトの他の幻想曲の理解の仕方をわれわれに教えてくれる」とアインシュタインは言う。
モーツァルトの即興演奏の偉大な能力、すなわち、「一見転調このうえない自由と大胆さを持ち、楽想のこのうえないコントラストを見せ、抒情的なものと技巧的なものとを自由きわまりなく交替させながらも、形式をちゃんと守る能力」の一番真実な姿をわれわれに見せてくれる。
同書 p.340

1785年12月アルタリア社からこの幻想曲(K.475)とハ短調ソナタ(K.457)が「作品2」として1フローリン30クロイツァーで売り出された。 そして翌1786年、ウィーンのモーツァルトはザルツブルクの父へその新譜を送り、さらにレオポルトはザンクト・ギルゲンに住む娘ナンネルに送った。

1786年2月(14日以降)、レオポルトからザンクト・ギルゲンの娘に
私がおまえに送った、ハインリヒも当地で持っているおまえの弟の『幻想曲とソナタ』と、クレメンティのソナタを彼が弾くのを聴いたら、おまえはびっくりするでしょう。 彼はフォン・ホーフシュテッテン氏のところで、フォルテピアノで実に見事に弾いたので、私は嬉しく思いました。
[書簡全集 VI] p.246
ただ、5月5日にレオポルトは「おまえの弟の『幻想曲とソナタ』を私のところに送り返してください。 ハインリヒのために写譜させないとおけないのです」と娘に伝えているのが不思議である。

1789年5月12日、モーツァルトはライプツィヒのゲヴァントハウスで演奏会を開く。 ドゥーシェク夫人が共演している。 このときこの幻想曲が、ハ短調ソナタの導入曲としてでなく、単独に演奏された。 作曲者自身がこの幻想曲を独立した作品として意識していたのだろう。

1990年、行方不明になっていた自筆譜が発見され、その自筆譜による初録音が渡邊順生氏によりなされている。

〔演奏〕
CD [artephon Berlin ETERNA 0031442BC] t=13'07
Annerose Schmidt (p)
1962年
CD [DENON CO-3860] t=11'50
ピリス Maria Joao Pires (p, Steinway)
1974年1〜2月、東京、イイノ・ホール
CD [TKCC-15151] t=10'29
レーゼル (p)
1975年
CD [DENON COCO-78748] t=13'18
ヴェデルニコフ Anatoly Vedernikov (p)
1977年、モスクワ
CD [KICC-32] t=12'03
イマゼール Jos Van Immerseel (fp)
1980年9月
※1788年アウクスブルクのシュタイン製フォルテピアノを、ケレコムが1978年ブリュッセルにて複製。
CD [RVC R32E-1002] t=12'34
ピリス (p)
1984年
CD [EMI CDC 7492742] t=13'42
ナウモフ Emile Naoumoff (p)
1986年12月、パリ、Salle Wagram
CD [ACCENT ACC 8853/54D] t=12'42
ヴェッセリノーヴァ Temenuschka Vesselinova (fp)
1990年1月、オランダ、ハールレム、Vereennigde Doopsgezinde Kerk
※1788年アウクスブルクのシュタイン製フォルテピアノを、ケレコムが1978年ブリュッセルにて複製。
CD [Teldec WPCS-10376] t=12'23
カツァリス Cyprien Katsaris (p, Steinway)
1988年12月、ベルリン TELDEC Studio Berlin
CD [RCA BVCC-131] t=13'21
デ・ラローチャ (p)
1990年8月
CD [PHILIPS PHCP-10370] t=13'17
内田光子 Mitsuko Uchida (p)
1991年5月ライブ
CD [stradivarius STR 33343 / Victor VICs-7] t=14'55
リヒテル Sviatoslav Richter (p)
1991年、ライブ
CD [POCL-2665] t=12'17
シフ (p)
演奏年、場所不明
CD [ALM Records ALCD-1012] t=13'15
渡邊順生 Yoshio Watanabe (fp)
1993年11月、埼玉県入間市民文化会館
Ferdinand Hofmann製フォルテピアノ(1800年頃)使用。 1990年に発見された自筆譜に基づく初録音。第1楽章の再現部の直前に演奏者(渡邊氏)によるアインガングが挿入されている。

〔動画〕

■グリーグによる2台ピアノ用編曲

CD [Teldec WPCS-21226] t=14'52
レオンスカヤ Elisabeth Leonskaja (p), リヒテル Sviatoslav Richter (p)
1993年8月16日、ヨハニスベルク城

〔動画〕


 

 
 

Maria Theresia von Trattner

1758 - 1793

マリア・テレージア・フォン・トラットナーは大学教授で宮廷数学者フォン・ナーゲル Joseph Anton von Nagel の娘。 モーツァルトのより2年遅く生まれ、この世に同じ年月過ごした。 モーツァルトがウィーンに定住する以前の 1776年、18歳で出版業者フォン・トラットナー(Johann Thomas von Trattner, 1717〜1798)と結婚した。 そのとき、フォン・トラットナーは59歳で、先妻との間に11人の子供があった。 そして、41歳も離れた若い後妻との間にさらに10人の子供(そのうち、生きのびたのは一人だけ)を作ったという。
なお、トラットナーはウィーン宮廷御用達の印刷業を営み、書籍の出版や製紙など手広く商売をしていて、1764年に貴族に列せられた。 1767年9月11日、皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女)とナポリ・シチリア王フェルディナント1世の婚儀のために催される祭典をめざして、モーツァルト一家(そのときヴォルフガングは11歳)がウィーンを訪問したとき、フォン・トラットナーの店に寄っている。

マリア・テレージアは1781年からモーツァルトのピアノの生徒(彼の最初の弟子)だった。 その頃、彼女には毎日午前10時〜11時までレッスンし、12レッスンにつき6ドゥカーテン(月払いで)もらっていた。 ほかにもピアノの生徒(ド・ルムベーケ夫人とアウエルンハンマー嬢)がいて、相手が都合でキャンセルしてもレッスン料をもらうようにしていたが、ただし「トラットナー夫人は締り屋なので、そうはいかない」とモーツァルトは父への手紙に書いている。 モーツァルトはさらに生徒を1人増やして4人にし、収入を月24ドゥカーテン(102フローリン24クロイツァー)にしたいと思っていた。

モーツァルト一家は1784年1月〜9月にその夫妻の邸宅「トラットナーホーフ」に住んでいたが、手狭なために引っ越した。 その半月後に、ピアノソナタ K.457 とこの幻想曲 K.475 をまとめて「作品第11番」としてウィーンのアルタリア社から出版した。 その値段は1フローリン30クロイツァーだったという。 また、マリア・テレージアに献呈する際「フォルテピアノのための幻想曲とソナタ。 カペルマイスターW. A. MOZARTよりテレーゼ・トラットナー夫人のために作曲された」と書かれた。 なお、「トラットナーホーフ」はフォン・トラットナーが1776年に建造したもので、モーツァルトはその4階に住んでいた。 家賃は半年で75フローリンだったという。 また、引越し先は今日「フィガロ・ハウス」と呼ばれているところである。
モーツァルトは、その「トラットナーホーフ」に住んでいた年の3月17日から毎週水曜日に、邸宅のサロンで予約演奏会(入場料は全部で6フローリン)を3回開いた。 そのときの174人の予約者の名前を父に手紙で書き送っているが、トラットナー夫人(マリア・テレージア)の名前は7番目に登場している。 ちなみに、スヴィーテン男爵は16番目。 ただし、順番にどれほどの意味があるのかは分からない。 174人全員の名前と詳しいことは[書簡全集 V](pp.458-491)にある。

彼女のピアノの腕前は(献呈された曲の難しさからすると)大変優れていたと思われるし、年齢が近いことからも単なる師弟関係以上のものがあったと想像しても不思議はない。 しかも、彼女の夫との年齢差を考えると、なおさらである。

1787年、マリア・テレージアは、同じ名前を持つモーツァルトの第4子テレージアの洗礼立会人(名づけ親)を務めた。 なお、その前に、1784年9月21日に生まれた第2子カール・トーマスはフォン・トラットナーが名づけ親となっている。 さらに、1786年10月18日に生まれた三男ヨハン・トーマスも彼が名づけ親となった。
 


〔参考文献〕


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2016/11/20
Mozart con grazia