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ピアノ四重奏曲 第1番 ト短調 K.478

  1. Allegro ト短調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante 変ロ長調 3/8 ソナタ形式
  3. Allegro moderato ト長調 2/2 ロンド形式

〔編成〕 p, vn, va, vc
〔作曲〕 1785年10月16日 ウィーン

1785年10月





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自作目録では、1785年7月の日付で記入されているが、自筆譜には上記のように「10月16日」と記載。 ピアノと弦楽三重奏のための四重奏曲というジャンルは極めて珍しく、モーツァルトが何故この領域に着手したかは謎であるが、ザスローはモーツァルトが室内楽を仲間うちで演奏するときヴィオラを弾くことを好んでいたことから通常のピアノ三重奏曲にヴィオラを加えることで生まれたのかもしれないと推測し、「モーツァルトは事実上、ピアノ四重奏曲の発明者である」と言っている。 また、ランドンは次のように説明している。

明らかにそのアイディアは、自身も室内楽曲の書き手だったホフマイスターから出たものである。 実際は3曲の予定だったようだが、いくつかの理由が重なって、結局2曲で打ち切られてしまった。 その一つの理由は、ピアノ四重奏曲というジャンルが、1780年代のウィーンではほとんど知られていなかったことである。 それらは、たとえばパリで活躍したドイツ人のヨーハン・ショーベルトといった、わずかな人の手で作られただけであったが、モーツァルトはショーベルトの作品を知っていた。
[ランドン] p.119
このように前年の「ピアノと管楽器のための五重奏曲」(K.452)の成功と出版社ホフマイスターからの依頼(契約では3曲)が動機となったと推測されている。 しかしこの年の12月に出版されたところ、モーツァルトの作品は難しいとされ、ホフマイスターは「もっと俗っぽく書いてくれないと、君の作品はこれからもう印刷できないし、支払いも出来ない」(ニッセン伝)と書き送ったといわれる。 モーツァルトはホフマイスターとの出版契約を解除し、1786年6月に作曲したもう1曲のピアノ四重奏曲(変ホ長調 K.493)は1787年7月にライバル社であるアルタリア社から出版した。

そんな単純な理由でモーツァルトが出版元を変えたのか、実際のところは詳細不明だが、1785年11月20日にモーツァルトはホフマイスターに宛てた手紙で

あなたはぼくの頼り所です。 そこで、どうぞお願いです。 なにがしかのお金を貸してくださって、ぼくを助けてください。 いま差し迫って、ぜひともそのお金がぼくには必要なのです。
[書簡全集 VI] p.186
と書いて、この曲の報酬の前借りを求めていること以外にはっきりしたことはわからない。 ホフマイスターは3曲のピアノ四重奏曲の契約解除後もモーツァルトの作品を刊行しているし、また、中には時流に迎合したものではない作品が含まれているので、ソロモンは「その伝説には根拠がない」と言っている。 たとえホフマイスターから文句を言われたとしても、そんなことで大事な収入源をみずから断つほどモーツァルトは単純な男ではなく、おそらくモーツァルト自身が「難しくて歓迎されない曲」と自覚していたに違いない。 実際、市場はこの曲を難曲として受け取っていて、ランドンは当時の新聞記事を引用し、次のように続けている。
ウィーンで当たり、流行っていたのは、ピアノ三重奏曲のほうであった。 従って、モーツァルトのピアノ四重奏曲は、その書法を含めて、この時期のウィーンでは『前衛的な』作品であったわけだが、さらに悪いことには、ピアノのパートが難しくて、名人芸を必要とする上に、正しく理解しようと思えば、じっと注意して聴かねばならない。
このように、モーツァルトは「新しい、変わった四重奏曲」を書いたが、それは「素人が演奏したら、とても聴けたものではない」という難曲であり、聴衆は「4人で演奏する理解不能の騒音に退屈して欠伸(あくび)する」という評価だったのである。 しかしそれ相当の能力をもつ演奏家には一度は挑戦してみたい作品だったのではないだろうか。 ザルツブルクのレオポルトは1785年12月1日にウィーンの息子から9曲の新作を受け取っている。
6曲の四重奏曲と総譜を3冊、つまり、クラヴィーア、ヴァイオリン、ヴィオラ、オブリガートのチェロを伴う四重奏曲、それに新作の大クラヴィーア協奏曲2曲が入った、郵便馬車による良好な保存状態の小包を届けてきました。 クラヴィーア四重奏曲は今年の10月16日になって書かれたもので、ヴァイオリンとチェロのパートはすでに版刻されていたので、印刷されています。
[書簡全集 VI] p.196
6曲の四重奏曲とは『ハイドン・セット』であり、このときレオポルトはさっそく3曲を弟子のヴァイオリン奏者ブライマン(Anton Breyman, 1762-1841)と二人で「一生懸命通し弾きして」楽しんだのだった。 そして、あとで誰かにそれぞれヴァイオリンとチェロを教え込み、自分はヴィオラを弾いて『ハイドン・セット』を演奏したいとレオポルトは考えていた。 もし娘ナンネルがいれば、さっそくこのピアノ四重奏曲の練習もしたかったであろう。 ただし、このときレオポルトが所有するフォルテピアノの調子が狂っていて、調整待ちの状態であり、まともな練習はできなかったかもしれないが。

ホフマイスターからの出版とは別に、この曲は1786年3月に筆写譜の製造販売で知られているラウシュからも新刊譜(2フローリン30クロイツァー)として売り出されている。 その年の8月には、モーツァルトはドーナウエッシンゲンのヴィンター(Sebastian Winter, 1744-1815)を介してフォン・フュルステンベルク侯(ヴェンツェル)に買ってもらおうとしたが、成立しなかった。 このときモーツァルトが(もし売れたとき)用意していたのはラウシュの版だったのだろうか?

ト短調はモーツァルトの運命の調性とも言われ、アインシュタインは第1楽章の荒々しい主題を「ベートーヴェンの第5シンフォニーの4つの音符と同様に、運命のモティーフと呼んでも正当であろう」と評し、終楽章の(のちのピアノ・ロンド K.485 の芽となる)主題についてはやや情緒的な感想を残している。

満ち足りた至福の瞬間である。 この瞬間は再びは帰らず、主題は楽章全体の進行のなかで二度とは使われない。 これはモーツァルトの天国である。 まったく無意識に現前している旋律の花であり、誰も手を触れずにそのままにしておかなくてはならない、神の贈物である。
[アインシュタイン] pp.361-362
それにしても、『フィガロの結婚』(K.492)の作曲にとりかかろうとする矢先に、このような曲を書いたのはどのような心境からなのだろうか。

〔演奏〕
CD [UCCD-9140] t=23'06
カーゾン Sir Clifford Curzon (p), アマデウス弦楽四重奏団員 Norbert Brainin (vn), Peter Schidlof (va), Martin Lovett (vc)
1954年9月、ロンドン
CD [AMON RA CD-SAR31] t=28'16
バーネット (fp), ザロモンSQ(古楽器)
1987年
古楽器使用、fpは Rosenberger, 1798, Vienna
CD [EMI CDC 7540082] t=27'46
コラール (p), ミュイールQ
1989年
CD [ARCANA A7] t=25'45
パドゥラ・スコダ (fp), ケルテス (vn), リゲティ (va), ペルトリーニ (vc)
1993年
※古楽器使用、fpは1790年、vnは18世紀、vaは1651年、vcは17世紀。

〔動画〕

〔参考文献〕


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2013/07/21
Mozart con grazia