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ソナタ 変ロ長調 K.8

  1. Allegro 変ロ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante grazioso ヘ長調 3/4 二部形式
  3. Menuetto 変ロ長調(トリオは変ロ短調)
〔編成〕 p, vn
〔作曲〕 1763年11月21日〜64年1月 パリ
1763年 7歳のモーツァルト

1764年4月にド・テッセ伯爵夫人(Adrienne-Catherine Comtesse de Tesse, 1712-57)に「作品2」として贈った2曲(K.8 と K.9)のソナタの第1。 ピアノとヴァイオリンのためのソナタとしては第3番にあたる。 ただし「ピアノとヴァイオリンのための」は正しくなく、伯爵夫人への献辞には「ヴァイオリンの伴奏で演奏できるクラヴサンのためのソナタ」となっている。 モーツァルト一家がパリ滞在中、世話になっていたグリム(Johann Friedrich Melchior von Grimm, 1723-1807)が献辞の文を書いたが、最初それを伯爵夫人が受け付けなかったので、献辞を書き直したという。 そのせいで、この曲の版刻(印刷)が遅れたという逸話が残っている。
なお、「作品2」というのは父レオポルトが1768年以前に書き残した「ヴォルフガングの作品目録」に記載されているもので、後世がつけたものではない。 なお、その目録には K.6 から K.47b (K.117?) までの作品が並んでいて、そのうち作品番号が付けられてあるのは「作品4」までしかない。

モーツァルト一家の1763年6月9日から1766年11月29日までの約3年半に及ぶ西方への大旅行に父レオポルトは「ナンネルの楽譜帳」を携え、ヴォルフガングの新たな作曲を書き加えていたが、その一つに「1763年11月21日、パリで」と記入されているものがあり、それがこのソナタの第1楽章に採り入れられている。 そしてこれがこの作品の成立の開始時期となり、翌年1764年2月1日の手紙でレオポルトが「今、4曲のソナタが版刻中です」と書いていることから、遅くても1784年1月には3楽章すべてが完成されたことになる。 その4曲のソナタとは通称「パリ・ソナタ」と呼ばれている、ハ長調 K.6、ニ長調 K.7、変ロ長調 K.8、ト長調 K.9であり、前の2曲はフランスの王女ヴィクトワールに「作品1」として贈ることになるものである。

レオポルト一流の積極的でしたたかな外交術がここに見られる。 すなわち自分の息子をヨーロッパ第一の都会(すなわち世界の中心)パリの宮廷に売り込む作戦の一環として、影響力のありそうな女性のハートを掴もうと考えたのだろう。

1764年2月22日、ザルツブルクのハーゲナウアーへ
私たちはおそくも2週間後にふたたびヴェルサイユにまいりまして、偉大なるヴォルフガング氏の版刻されたソナタの作品第1番を、国王の第二王女マダム・ヴィクトワールにお手渡しいたしますが、この作品第1番はこのお方に献呈されます。 作品第2番はたぶんテッセ伯爵夫人に捧げられることになるでしょう。 3週間から、おそくとも4週間あとには、神さまのおぼし召しがあれば、重大なことが起こるはずです。 私どもは立派に畠を耕しました。 そこでまた立派な刈り入れが望まれるのです。
[書簡全集 I] p.127
モーツァルト一家がパリに滞在したとき、多くの知識人や貴族と出会っているが、その中にブルボン王家の系統をひく大貴族コンティ公(Louis François de Bourbon, Prince de Conti, 1717-76)がいた。 ド・テッセ伯爵夫人はそのコンティ公の寵姫だった。 コンティ公は「聖堂騎士団副長をつとめ、『タンプル』と名づけられた修道院跡の宏壮な宮殿に住み、みずからかなり大がかりな楽団をかかえていた」という。

当時パリでは親イタリア音楽派「王妃派」とフランス音楽派「国王派」の対立がくすぶっていたが、レオポルトは後者がやがて消えてしまうだろうと見ていた。

当地では、イタリア音楽とフランス音楽がたえず戦争をしています。 フランス音楽はまったくなんの値打ちもありません。 でも今ではひどく変わりはじめており、フランス人たちは今やはなはだしくぐらつきはじめていて、10年から15年もたてば、フランス趣味は、望むらくは、完全になくなってしまうでしょう。
[書簡全集 I] p.119
こうした状況の変化はレオポルトの望むものだったようであり、しかもパリではドイツ系の音楽家たちが活躍していたのである。 彼は続けて報告している。
ドイツ人たちが、作品の刊行の点では主役を演じています。 そのなかで、クラヴィーアではショーベルト氏、エッカルト氏、ホーナウアー氏が、ハープではホーホブルッカー氏とマイヤー氏がたいへんもてはやされています。 フランス人のクラヴィーア奏者ルグラン氏は自分の趣味をまったく捨て去っていて、彼のソナタは私どもの趣味にのっとっています。
そしてありがたいことに、これらのドイツ人音楽家たちは神童モーツァルトのもとへそれぞれ自分の銅版印刷したソナタを持って来て、贈呈してくれたのであった。 こうした機会を機敏にとらえ、「神さまのお陰で日々新たな奇蹟をおこなっている」7歳の少年が同様の作品を出版することは急務だとレオポルトは考えたのである。
表紙にこれが7歳の童児の作品だと書いてあったとき、これらのソナタが世間でひきおこすだろう大騒ぎをご想像ください。
レオポルトの頭の中では息子がパリで一躍頂点に輝く姿が見えていたのであろう。 その同じ手紙の中で「私どもが、神さまのおぼし召しで、帰郷いたしますまでには、宮仕えができるようになっています」とさえ書いていた。

こうしてドイツ人作曲家たちがさかんに書いていた「ヴァイオリンの伴奏で演奏できるクラヴサン(チェンバロ)のソナタ」をモデルにして、モーツァルトの「パリ・ソナタ」が作られた。 また、従来の6曲または12曲の連作という慣例的な形ではなく、2曲一組で出版するという彼らのやり方も真似ている。

おなじやり方でソナタを書き上げ、おなじやり方で出版することで、こうした音楽家たちに敬意を表し、かつパリの流行の趣味に迎合しようとしたのは、明らかにレーオポルトの戦術であったろう。 じっさい、第1曲をのぞいて、急速なアレグロ楽章のあとに緩徐楽章がつづき、そしてメヌエットが、トリオの役割を果たす第2メヌエットを伴ってフィナーレに置かれるという形は、彼らパリのドイツ人作曲家たちが好んだ楽曲形式でもあった。
[海老沢] p.41
ただしここで少年モーツァルトのモデルとなったパリのドイツ人作曲家たちの作品と比較したとき、レオポルトが夢見たものはあまりに甘く早急すぎていた。 モーツァルトの「パリ・ソナタ」は、「その外的な衣裳の点で内的な作風の点でも、なによりもまずショーベルトのモデルを追随しているが、しかしこの模倣はモーツァルトの年齢にふさわしいもので、子供らしく誠実である」とアインシュタインは言い、次のように続けている。
20年後のモーツァルトが、緊張、エネルギー、力においてヨーハン・ショーベルトを百倍も凌駕しているように、少年モーツァルトは百倍も劣っているのである。 ショーベルトの芸術は、8歳の少年が理解したり模倣したりしえないような、深みと予想外のものを持っている。 そして、ショーベルトはシュレージェン人で、ポーランドとの国境付近の出身だったので、しばしば民族的な魅力を持つポロネーズを(たいていは中間楽章として)書いたが、幼いモーツァルトはそれに対してカンタービレな、メロディーの点では特性のないメヌエットを対立させることしかできなかった。
[アインシュタイン] p.166
それでも8歳になったばかりの子供がプロの音楽家を真似てここまで作曲できたことには驚かざるを得ない。
これらのソナタ作品で、7歳のモーツァルトは、すでになんと多様なひびきの世界をあらわにしていることだろうか。 装飾音に多彩なかたちでいろどられた優美な楽章もあれば、堂々とした、技巧美にみちあふれたアレグロ楽章もある。 さわやかなメヌエットには、対照的に沈んだ情調の短調の第二メヌエットがつづいて、明暗の妙をあらわにしていることもある。 変ロ短調と、その後のモーツァルトには考えられない調号を執るメヌエットさえある。
[海老沢] p.40

余談であるが、この「パリ・ソナタ」にふさわしい有名な絵がある。 それは1763年にカルモンテル(Carmontel、本名 Louis Carrogis, 1716-1806)によって描かれたパリで合奏するモーツァルト一家の水彩画である。 この絵について、1764年4月1日にザルツブルクのハーゲナウアーに宛てた手紙の封筒の裏面に次のように書いている。

銅版彫刻師のメーヒェルさんは、アマチュア画家のカルモンテル氏がたいへん見事に絵をかいてくれた私どもの肖像画を大急ぎで版刻する仕事をしています。 ヴォルフガング坊やがクラヴィーアを弾き、私はその椅子のうしろに立ってヴァイオリンを弾き、ナンネルは片腕でクラヴサンに寄りかかり、もう一方の手で楽譜を持ち、歌っているようなふりをしています。
[書簡全集 I] p.144
1766年11月、大旅行が終りに近づく頃、一家はチューリヒに2週間滞在し、そこでゲスナー兄弟、ヨハネス(Johanness Gessner, 1709-60)とザロモン(Salomon Gessner, 1730-88)から暖かいもてなしを受けた。 ザロモンはヴァイオリンを弾く少年モーツァルトの姿をスケッチして残しているという。 レオポルトは「別れはたいへん悲しいものでした」と書き残しているが、そのとき友情のしるしに詩人ザロモンから4巻の著作集を贈られた。 そのお礼として後にレオポルトは「パリ・ソナタ」を含むソナタ集を献呈した。 モーツァルトの遺品の中にザロモンの著作集第1部と第2部が残されている。

〔演奏〕
CD [PHILIPS PHCP-9081-2] t=10'29
ヴェルレ Blandine Verlet (hc), プーレ Gerard Poulet (vn)
1974-75
CD [BMG ビクター BVCC-61] t=9'39
ナイクルグ Marc Neikrug (p), ズーカーマン Pinchas Zukerman (vn)
1990, Manhattan Center, New York
CD [音楽出版社 AEOLUS OACD-2] t=6'57
小林道夫 (hc), 岡山潔 (vn)
1991年8月、埼玉県松伏町、田園ホール・エローラ

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2012/10/07
Mozart con grazia