Mozart con grazia > ピアノ協奏曲 > 第5番ニ長調
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K.175 ピアノ協奏曲 第5番 ニ長調

  1. Allegro ニ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante ma un poco Adagio ト長調 3/4 展開部のないソナタ形式
  3. Allegro ニ長調 2/2 ロンド形式

編成 p, 2 ob, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, va, bs
作曲 1773年12月 ザルツブルク

モーツァルト自身の手になる最初のクラヴィア協奏曲。 先の

は他の作曲家のピアノ・ソナタなどにオーケストラ・パートを加えたものだった。 この頃、生まれつつあったこのジャンルに、ピアニストとしての天分を見事に発揮した作品であり、「試作というには、あまりに見事な腕前だ」(メシアン)というだけでなく、既に傑作の域に達していた。 アインシュタインは
独奏楽器とオーケストラの釣合、ならびに規模の点で、すでにヨーハン・クリスティアーン・バッハをはるかに越えている。
(途中略)
終楽章では、モーツァルトはもはやガラント風では満足しない。 1773年のヴィーン弦楽四重奏曲の二曲におけるように、学問的な対位法的なフィナーレとなる。 モーツァルトはこの楽章によって、最初のスタートからヨーハン・クリスティアーンをもフィーリップ・エマーヌエルをも、ともにはるかに引き離したばかりでなく、彼らを超克したのである。
淺井真男訳「その人間と作品」白水社 p.396
と絶賛している。 また、ザスローは「この作品を習作と考えるのは、いかなる意味でも間違っている」と断言している。 モーツァルトが突然このような高みに達したピアノ協奏曲を書き上げた背景には、直前の弦楽四重奏曲(ウィーン四重奏曲)集の完成や、交響曲三部作(ハ長調 K.200、ト短調 K.183、イ長調 K.201)などの霊感あふれる作品が書かれていることが指摘されている。 オカールは
当時懐胎期にあったこのジャンルを手がけた彼は、先人たちによって提起された問題、すなわち交響曲の精神と、多くの場合には社交的なものであった協奏音楽の精神をいかに調和させるかという問題を、天才的に解決してみせた。
西永良成訳「モーツァルト」白水社 p.43
と述べ、サン・フォアの評価
他に較べようのない本当に見事な作品だ。 この作品だけで、もしまもなく当時の『ギャラントリー』の圧倒的な流行のために、イタリアとヴィーンの発見以来生きていた素晴らしい夢から目を覚まされなかったなら、青年モーツァルトの天才がその後どんな高みにまで行き着いたかを示すに十分だ。
を引用して、この作品の価値を認めている。

さて、モーツァルト自身はこの曲にかなり愛着を持っていたようで、その後のミュンヘン旅行、マンハイム・パリ旅行、さらにウイーン時代においても大切なレパートリーとしていたことが残された手紙のあちこちで見ることができる。 たとえば、1778年2月14日、マンハイムからザルツブルクの父へ次のように書いている。

きのうはカンナビヒのところで音楽会がありました。 最初のカンナビヒのシンフォニーを別として、全曲ぼくの作品でした。
(途中略)
それからぼくは、ぼくの古いニ長調の協奏曲を弾きました。 それはここでとても気に入られているからです。
海老沢・高橋編訳「モーツァルト書簡全集 III」白水社 p.526
1777〜78年頃、オーケストラの部分を改変していることも知られている。 1782年1月23日の手紙では、ウィーンのブルク劇場での演奏会で取り上げることを知らせているが、そのときウィーンの聴衆の好みに合わせてフィナーレを書き直していた。 それが独立した曲「ロンド K.382」となっている。 モーツァルトは協奏曲をさらに3月3日にも弾いているし、9月28日には「ぼくが劇場で弾いた協奏曲は6ドゥカーテン以下では手放したくない」と言っている。 1783年1月22日には
あの三つの協奏曲について、高すぎるなんて心配することはありません。 まだ写譜するわけにいきません。 一定数の予約者を確保するまで、ぼくは手放しません。
同「書簡全集 V」白水社 p.330
と父に伝えている。 モーツァルト自身がカデンツァを残しているほどである。 そのカデンツァはザルツブルクの聖ペテロ大修道院(Archiv St.Peter)にある。 1783年3月23日にウィーン宮廷劇場で開かれたコンサートは、曲目が詳細に知られているが、その中にもこの協奏曲がとり上げられていて、「当地で好まれている」とモーツァルトは書き残している。

この作品は、まったく性格の異なる2つのフィナーレを持つことになった。 たぶん作曲者の意に反して、後世の評価としては「最初の学問的な美しいフィナーレが気の抜けた変奏曲に置き換えられた」と否定的である。 しかし初版(1784年パリBoyer)は、終楽章にロンド(K.382)が置かれている。 とにかく、ピアノ協奏曲というジャンルが生れつつあった当時と現在とでは、この作品の持つ重みが違うのは当然かもしれないが、価値は少しも変っていないし、作曲者が愛し続けたこの曲の演奏があまり見られないのは残念である。 終楽章の扱いに戸惑いがあるせいか。

自筆譜はベルリンの Grassnick所有。

演奏
CD[TELDEC WPCS-10097] t=20'34
エンゲル (p), ハーガー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム
1977年
※カデンツァはエンゲル
CD[ポリドール F32L-20321] t=22'17
アシュケナージ Vladimir Ashkenazy (p) 指揮(cond), フィルハーモニア管弦楽団 Philharmonia Orchestra
1986年
※カデンツァはバドゥラ・スコダ

 


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2008/03/09
Mozart con grazia