| 17 age |
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92 |
ウィーン四重奏曲 |
1763年6月9日、モーツァルト一家は3年半にも及ぶ西方への大旅行(帰郷するのは1766年11月29日)に出発し、ヨーロッパの各地で奇蹟を演じたことはよく知られている。 その後も、今度は父と二人で休むことなく旅行を続けているが、その目的は大旅行のときと違って、できれば息子の就職先を見つけることであり、オペラなど大作の作曲依頼をもらうことだった。 しかしそうなると、話は簡単ではないことは容易にわかることである。 かつて神童を熱狂的に受け入れた側にはどこにでも専属の音楽家がいるわけで、彼らが自らの職を手離して、モーツァルトに譲るはずはない。 1771年8月にモーツァルト父子が2度目のイタリア旅行に出たとき、次のような事実があったことは、このような状況の変化を雄弁に物語っている。
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| ウィーンの博物館前のマリア・テレジアと少年モーツァルトの像 |
あなたは、若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。 私にはどうしてだか分かりませんし、あなたが作曲家とか無用の人間を必要としているとは信じられません。 けれど、もしそれがあなたを喜ばせることになるのなら、私は邪魔をしたくはないのです。 あなたは無用な人間を養わないように、そして決してあなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。 乞食のように世のなかを渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響をおよぼすことになります。 彼はその上大家族です。という返事があった。 マリア・テレージアといえば、6歳だったモーツァルトを膝の上にあげ、キスするのを許したこともあったのであるが。 そのような背景があったとは知らず、モーツァルト父子は1771年12月15日にザルツブルクに戻ったが、その翌日、寛大であった大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハが死去。海老沢・高橋編訳「モーツァルト書簡全集 II」 白水社 p.323
その翌年3月14日にヒエロニムス・コロレド伯がザルツブルクの新大司教に就任したが、さらに10月24日に、父と二人で3回目のイタリア旅行に出かけている。 父レオポルトはミラノで自分の病気を口実にして帰郷を延ばし、息子の就職先を探したが失敗に終った。 そのときいわゆる「ミラノ四重奏曲」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲シリーズ(第2番ニ長調 K.155、第3番ト長調 K.156、第4番ハ長調 K.157、第5番ヘ長調 K.158、第6番変ロ長調 K.159、第7番変ホ長調 K.160)作られた。 そして1773年3月13日、ザルツブルクに帰郷。 ヴォルフガングの制作活動は旺盛に続くなかで、すぐさま、7月14日、父と二人で3回目のウイーン旅行に出るのだった。 そのとき息子の就職がうまく決まるように、事態を好転させようとして父レオポルトが命じて作らせたいわゆる「ウィーン四重奏曲」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲シリーズが生まれる。 第8番ヘ長調 K.168、第9番イ長調 K.169、第10番ハ長調 K.170、第11番変ホ長調 K.171、第12番変ロ長調 K.172、第13番ニ短調 K.173 である。 「ミラノ四重奏曲」はどれも3楽章であるのに対して、「ウィーン四重奏曲」はメヌエットが追加され、4楽章から成る。
この曲の成立に関して、アインシュタインが
K.168 から K.173 までの次のグループは、番号と成立年代からすれば前述のK.155 から K.160 までのグループとあまりへだたっていないが、しかし両者のあいだには一つの裂け目がある。 それはもはやイタリア的、ミラノ的四重奏曲ではなく、オーストリア的、ヴィーン的四重奏曲なのである。 モーツァルトはその6曲全部を1773年の晩夏に書いた。 この1773年のヴィーン滞在はモーツァルトの発展に決定的な役割を演じた。
ヴィーン滞在によってモーツァルトは革命家ヨーザフ・ハイドンを知る。 もっと正確に言えば、ハイドンの作品17番、作品20番のそれぞれ6つの四重奏曲を知るのである。
モーツァルトは感銘に圧倒される。 またしても彼は自分に適合するものを模倣するだけであるが、しかしそれを完全に自分のものとすることができない。
モーツァルトはいわばハイドンのために狼狽させられたのである。浅井真男訳「その人間と作品」白水社 pp.246-249
と述べているように、1773年の父との3回目のウイーン訪問の際、ハイドンの四重奏曲「作品17(1771年)」や「作品20(1772年)」を手本に書いたものである。
当時ウィーンでは弦楽四重奏曲が人気を博していた。
弦楽四重奏曲のジャンルを当時41歳のハイドン(右の写真)が開拓し、新天地を切り開きつつあったとき、17歳の少年モーツァルトは先輩の作品を手本にするのは当然としても、ただ模倣するだけだったわけではない。
さて、アインシュタインは続けている。
ハイドン自身もいくらか狼狽しているのであるが、それにもかかわらず、モーツァルトがその模範であるハイドンの独創性、因習に対する無関心、論理的な声部処理、民衆性と精神との結合に達しているとはとうてい言えないのである。また、アーベルトも
われわれは明らかに、モーツァルトが偉大な模範に直面して当惑しているという、あるいは自分には確信のないものを細心な仕事によって補おうとしているという印象を受ける。と評している。 しかし、そのような型にはまった批評でこの連作を聴き終えたことにはならないであろう。 自筆譜の研究で有名なプラートは
しかしながら、いかにそのような影響の重要性を評価しようと、モーツァルトがその作曲様式において、ハイドンによる脱線を驚くほど少ししか自分に許していないということを基本的に認めざるを得ない。と述べている。 短期間で仕上げたこの連作によって、青年モーツァルトは一作ごとに成長していった。
K.169のアンダンテでモーツァルトは、おそらく彼の音楽では初めて、ヴィーン時代後期の作品にいたるまで彼を没頭させることになる形式のタイプを作り出した。
K.173(ニ短調)の開始楽章も予言的である点で勝るとも劣らない。 そしてこの四重奏曲のメヌエットは、この連作すべてのうちで最も壮大な楽章のひとつであり、確実に1773年の奇跡に数えられるものである。ザスロー編「モーツァルト全作品事典」音楽之友社 p.328
なお、1773年9月26日、就職が決まることなく父子はザルツブルクに帰った。 マリア・テレージアのウィーンでは無理な話であったに違いない。
以下、6曲から成る連作を、おもに井上和雄氏の著書を足場にして紹介したい。
弦楽四重奏曲 第8番 ヘ長調 K.168
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そのシリーズの最初にあたる。 第1と第4楽章のアレグロ表示はレオポルトの手で書かれているという。 第2楽章主題は作品20の5番のフーガ主題と一致する。 多くがハイドンから借りている段階にあり、モーツァルトならではの作品には至っていないというのが定説である。
アインシュタインの言う「狼狽」を、井上和雄は「当惑」と表現し、
このK168の弦楽四重奏は、モーツァルトにしては珍しく実験的な作品であったと言わざるを得ない。 第一楽章の構成それ自身がそうであったし、この四楽章構成そのものもそうだし、何よりこの四つの楽章のそれぞれの関係がまるでバラバラになっているからである。 そしてそういうことになった最大の原因は、アーベルトも言うように、やはりハイドンが与えたショックにあると見るのが一番妥当なように思える。と、この曲から受ける印象を説明している。 しかし、第2楽章には「モーツァルト特有のデモーニッシュなものを感じるという。
モーツァルトは明らかに、何とかしなければいけないという衝撃で当惑している。 しかしまだそれを突破することが出来ないでいるのだ。 しかしおそらく僕等はこれをモーツァルトの責任に帰することも出来ないのではなかろうか。 半年前にこの新しい分野へ踏み込んだばかりのモーツァルトにとって、このハイドンの作品は何と言っても荷が勝ちすぎた。 しかし他方で、僕等は、このハイドンの作品が出たあと、これと正面から立ち向かった作曲家が、この若冠十七歳のヴォルフガングを除いて誰もいなかったことも知っている。井上和雄著「モーツァルト、心の軌跡」音楽之友社 pp.112-113
実はこの第二楽章こそハイドンの作品20の5の最終楽章から旋律を借用したものだと言われている。 なるほどそう言われればその通りだが、ここにはハイドンを想わせるものは何もない。 主旋律の音階は同じであっても、これはハイドンのあずかり知らぬ世界である。 (途中略)
この何とも言えない暗さを秘めた情念のうねりは、実を言えばあのレクイエムのキリエの主題となって晩年爆発する。 あのキリエの凄みはもたないとしても、たしかにあの世界に通じていく情感をこの十七歳のモーツァルトの中に僕は見るのである。同 p.111
■演奏
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CD [WPCC-4116] t=13'40 バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Richard Krotschak (vc) 1955年2月、ウィーン、the Mozartsaal of the Konzerthaus |
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CD [Warner-Pioneer 32XC-29] t=12'41 セコイア弦楽四重奏団、松田洋子 (vn)、渡辺実和子 (vn)、ダンハム James Dunham (va)、マーチン Robert Martin (vc) 1981年3月、ニューヨーク |
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CD [KICC 7156] t=10'51 ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc) 1991年4月、バンベルク |
弦楽四重奏曲 第9番 イ長調 K.169
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ウィーン四重奏曲第2番。 ハイドンの作品に強く揺さぶられて出来た第8番の反動として、この曲は前シリーズの「ミラノ四重奏曲」か、あるいはもっと前のディヴェルティメント K.136 に戻ったような作品と言われている。 より遠くへ飛ぶために後退したのかもしれない。 次の「ハ長調 K.170」を書く前にどうしても自分を確かめておきたかったのかもしれない。 17歳の明るく軽快なモーツァルトがそこにいる。
■演奏
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CD [WPCC-4116] t=16'25 バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Richard Krotschak (vc) 1955年2月、ウィーン、the Mozartsaal of the Konzerthaus |
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CD [KICC 7156] t=12'13 ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc) 1991年4月、バンベルク |
弦楽四重奏曲 第10番 ハ長調 K.170
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ウィーン四重奏曲第3番。 ハイドンの作品17-3 にならって、第1楽章をアンダンテの変奏曲にした。 井上和雄によると、
それだけではない。 未だ誰も指摘していないが、そのテーマの後半の出だしと、ハイドンの作品2の6にあるテーマの類似に驚かされる。 ヴォルフガングがこの時、徹底して若い時代のハイドンにまで遡って研究を重ねたことを示唆しているのだと思う。 そらくそれほどヴォルフガングのショックも深刻だったのである。という。 全楽章がソナタ形式でなく、また主題と4つの変奏を持つ作品はこれしかないな ど、実験的な試みを通して、先輩の辿った道を懸命に消化しようとする姿が見え る。 それを井上和雄は次のように述べている。井上和雄著「モーツァルト、心の軌跡」音楽之友社 pp.117-118
大きな精神は問題を大きく深く捉え、他人が何も感じないところに大きな苦しみを感じる。 そしてその解決のために苦しむ。 今のヴォルフガングがまさにそれなのだ。同書 p.118
■演奏
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CD [WPCC-4117] t=13'57 バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Emanuel Brabec (vc) 1955年3月、ウィーン |
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CD [KICC 7156] t=12'58 ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc) 1991年4月、バンベルク |
弦楽四重奏曲 第11番 変ホ長調 K.171
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ウィーン四重奏曲第4番。 第1楽章に序奏(アダージョ)を置く試みはハイドンにもない。 それは不協和音 K.465 とこの曲のみである。 後にハイドンも弦楽四重奏曲で用いる。 主部はアレグロ・アッサイ。そして再びアダージョの後奏がある。 そのため、アンダンテとメヌエットを入れ替える工夫がなされている。 アンダンテはいわゆる「短調のモーツァルト」がしみじみと歌う。 それについて、井上和雄は「モーツァルトはハイドンを忘れて優しさをとり戻したのである」と言い、
何と言ってもこの K171 で素晴らしいのは第3楽章のアンダンテである。 弱音器をつけた第1ヴァイオリンの旋律は、あの節度をもったメヌエットの情感からもう一歩深い情念の中へモーツァルトが入り込んだことを示している。 モーツァルトの心は求心的に自己の情念と向い合っている。と評している。井上和雄著「モーツァルト、心の軌跡」音楽之友社 p.125
■演奏
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CD [WPCC-4117] t=15'01 バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Emanuel Brabec (vc) 1955年3月、ウィーン |
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CD [KICC 7156] t=12'40 ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc) 1991年4月、バンベルク |
弦楽四重奏曲 第12番 変ロ長調 K.172
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ウィーン四重奏曲第5番。 せっかくハイドンを丸呑みしたものの消化できず、第2番 K.169 同様、第1楽章では再びミラノ風のソナタ形式に戻っているようである。 ただし前作と違って、混乱といったものはなく、まとまりのある作品に仕上がり、その意味で、この時期の最も正統的で規範的な作品ともいわれる。 なお、第1楽章のテンポは第三者の筆跡だという。 また、自筆譜には作曲日付と地名が明記されていないので、成立時期が不明である。 メヌエットでは第1ヴァイオリンとヴィオラによるカノンがある。
■演奏
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CD [WPCC-4117] t=17'20 バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Emanuel Brabec (vc) 1955年3月、ウィーン |
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CD [KICC 7156] t=12'57 ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc) 1991年4月、バンベルク |
弦楽四重奏曲 第13番 ニ短調 K.173
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ウィーン四重奏曲第6番。シリーズ中唯一の短調作品。 第1楽章は「快活に、しかしきわめて節度を持って」演奏するよう指示されているが、そのテンポは父の手により記載されている。 第4楽章には K.168 で試みたフーガを再び用いている。 井上和雄は
とくにこのフーガの最後の三分の一ほどは『ウィーン四重奏曲』の最後を飾るに相応しい出来ばえで、とりわけ最後にフォルテの何小節かが激しく歌ったあと、チェロからこのテーマが弱音で順次出ていく姿、そして一番最後に、これまでニ短調だったものがニ長調の和音となって静かに終わるところは、一種のカタルシスがあるといってよい。と、17歳のモーツァルトがハイドンに挑んで、苦悩の末に最後に(ようやく)獲得した自己の世界をフーガの技法で表現し、締めくくっていることを高く評価している。
ヴォルフガングは『ウィーン四重奏曲』6曲の最後の最後になってとうとう掴んだのである。 自分の求めていたものを。 それを言葉で表すことは出来ない。 しかし僕等はこのフーガの感動の中でそれを確実に感じ取ることが出来る。井上和雄著「モーツァルト、心の軌跡」音楽之友社 p.141
■演奏
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CD [WPCC-4117] t=17'04 バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Emanuel Brabec (vc) 1955-56年頃、ウィーン |
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CD [Warner-Pioneer 32XC-29] t=15'19 セコイア弦楽四重奏団、松田洋子 (vn)、渡辺実和子 (vn)、ダンハム James Dunham (va)、マーチン Robert Martin (vc) 1981年3月、ニューヨーク |
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CD [KICC 7156] t=15'38 ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc) 1991年4月、バンベルク |
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