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■編成 2 ob, 2 hr, 2 tp, 2 vn, va, vc
■作曲 1774年5月5日 ザルツブルク
3回目のイタリア旅行からザルツブルクに帰って間もなく作られた第22番から第30番までの9つの交響曲の自筆譜は父の手でまとめられ合本とされ、作曲時期が消された。 旧全集はその合本通りの順で番号付けされていたが、その後、消された日付は解読され、次の順になった。
1771年と74年のあいだの2、3のシンフォニーの特性(ほとんど原理と呼んでいいような特性)は、フィナーレの冒頭の主題が第1楽章の冒頭の主題から発展しているということである。 特に極端な例として、わたしは K.96、K.112、K.162、K.199、K.202 を挙げる。つづけて浅井真男訳「その人間と作品」白水社 pp.306-307
モーツァルトのシンフォニーの楽章間のバランスは、ヨーゼフ・ハイドンの場合のように、またハイドンの影響も受けて、フィナーレの方からくずれてゆく。と述べている。 しかし、「シリアス」なものの方に価値を認め、そうでないものを「後退」とする見方に対して、ザスローは
終楽章はひとつの《結末》以上のものではなく、ただ主題の点で第1楽章と再度関係するということが目立っているにすぎない。
しかし、トランペットを伴うニ長調の祝祭的な作品が、どうして「シリアス」である必要があろう? また「シリアスさ」を時代錯誤的に(つまりロマン主義的に)過大評価して、どうなるというのであろうか。つづけて森泰彦監訳「モーツァルト全作品事典」音楽之友社 p.245
(フィナーレの)減和音と不意の休止を配した展開部は、しばしシリアスそのものの印象を与えるが、その後コーダが「的確な」終止を提供せぬままあっけなく消え失せるさまに接するとき、われわれはこの作曲家が、ユーモアのセンスの発達した18歳の少年であったことを思い出すのである。と反論している。 現在もなおベートーベンに代表されるシリアスなシンフォニーを価値基準とする見方が依然として残っているため、アインシュタインの出版「人間と作品」から60年以上たった今も、ザスローはこのように書かなければならないのかもしれない。
■演奏
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CD[ポリドール FOOL 20369] t=25'02 ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music 1979-80年 |
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CD[PMG CD 160 114] t=24'04 リッチオ指揮 Alberto Lizzio (cond), モーツァルト・フェスティヴァル管弦楽団 Mozart Festival Orchestra 1988年頃 |
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CD[Membran 203300] t=13'24 Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino 演奏年不明 |
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