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ヴァイオリン協奏曲 第2番 ニ長調 K.211

  1. Allegro moderato ニ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante ト長調 3/4 ソナタ形式
  3. Rondeau : Allegro ニ長調 3/4 ロンド形式
〔編成〕 2 ob, 2 hr, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1775年6月14日 ザルツブルク
1775年6月



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「ヴァイオリン教程」にあるレオポルトの肖像画。ザルツブルクの画家ゴットフリート・アイヒラーが描き、ヤーコブ・アンドレアス・フリードリヒが銅板画にしたもの。

モーツァルトが誕生した年の7月、父レオポルトは自著「ヴァイオリン教程」をアウクスブルクで出版した。 「深い洞察力と優れた資質を見せ、例題もすばらしい。指づかいは本物だ」と絶賛され、すぐに売り切れるほどヴァイオリン演奏法の名著として有名となり、そして各国語に翻訳された。 1771年から1772年にかけてライプツィヒのブライトコップから100部販売した実績を踏まえ、レオポルトは息子の作品の出版をもちかけていて、2回目と3回目のイタリア旅行の間の1772年2月7日、次の手紙を書き送っていた。

適当なものの名さえ挙げてもらえればけっこうです。 クラヴィーア曲でもヴァイオリン2とチェロのための三重奏曲でもヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロのための四重奏曲でも、それにヴァイオリン2、ヴィオラ、ホルン2、オーボエ又はフルート2、バスによる交響曲でもけっこうです。 要するにあなたが欲しいと思われるジャンルを言って下されば、御連絡があり次第彼は作曲するでしょう。
[ドイッチュ&アイブル] pp.110-111
ヴァイオリン演奏法の権威である自分が監修するのだから、ましてヨーロッパ中にその名を知られていないはずのない天才作曲家の作品であれば売れないわけはなく、出版者にとってこれ以上いい話はないに違いないと考えていたかもしれないが、この提案は受け入れられなかったようである。 しかし息子の類稀な才能を間近で見て、それにふさわしい将来を案じていた(そのかわり娘ナンネルは忘れられてゆくが)父レオポルトは諦めることなく交渉の機会をうかがっていた。 まったく同じ内容のことを1775年10月6日の手紙の中でも見ることができる。
拙著『ヴァイオリン教程』50部を貴下はきっとお受け取りになられたことでしょう。 御同様に貴下もシュヴァルツコプフ氏を介して75フローリンを小生にお支払い下さいました。 小生こと、いささか前から、愚息の仕事を若干印刷させてみたいと考えておりましたが、貴下がなにか出版してみようとお考えになられるかどうか、できるだけ早くお知らせいただけますでしょうか。 交響曲あり、四重奏曲あり、三重奏曲あり、ヴァイオリンおよびチェロ用のソナタありですが、これはいわゆるヴァイオリン独奏のものか、クラヴィーアのためのソナタかです。
[書簡全集 III] p.15
モーツァルトのヴァイオリン協奏曲(第1番から第5番まで)は1773年から1775年にかけて集中して書かれ、どれも作曲の動機がはっきりしない。 彼自身または宮廷楽団のヴァイオリン奏者ブルネッティ(当時31歳)のためと思われているが、差し迫った必要がないのにモーツァルトが自発的に作曲したとは考えにくい。 やはりそれには上記のように出版の可能性を考えた上での(何事にも用意周到な)レオポルトからの強い勧めがあったのではないだろうか。 ヴァイオリン協奏曲第2番にあたるこの曲は第1番変ロ長調(K.207)から2年たった1775年の6月に書かれ、そして12月の第5番イ長調(K.219)までわずか半年のうちに残りの作品が集中して作曲された。 その後モーツァルトはヴァイオリン協奏曲をまったく書かなかったことを考えると、この時期には何か特別な力が働いていたと考えるのが自然である。 作曲時期そして作品の数を見ると、1775年後半にその力(作曲家自身の内面からというより外からのもの)が強く加えられたと思われる。

アインシュタインは、もしかしたら作曲者自身があまり乗り気でないなかで作られた曲と見ているせいか、これら一連の協奏曲に対する彼の評価は手厳しい。

さて、ふしぎな話だが、これら5曲のコンチェルトは名人芸と名づけられるものを大して要求せず、その点ではモーツァルト自身のディヴェルティメントにさえ劣っている。 パガニーニのような人だったら、このような曲を多少とも嘲笑したにちがいない。
[アインシュタイン] p.380
ただしモーツァルトは、ヴァイオリン協奏曲第1番 K.207 から第2番 K.211 までの2年間、このジャンルにまったく無関心だったわけではない。 ザスローは
その間にモーツァルトは《コンチェルトーネ》(1774)と2曲の《セレナード》K.185(1773)および K.203(1774)を作曲した。 セレナードは2曲とも、8楽章制の中に3つのミニチュア・ヴァイオリン協奏曲を含んでいる。
[全作品事典] p.184
と指摘し、また「《ヴァイオリン協奏曲第2番》は、年代的に、弦楽器のための協奏曲という媒体におけるモーツァルトの偉大な業績への出発点に位置している」と高く評価している。 そして、ミニチュア・ヴァイオリン協奏曲のうち変ロ長調 K.203 については、アインシュタインも「挿入されたヴァイオリン・コンチェルトは全く成熟しきっていて、作品のなかの真正の作品であって、ただのエピソードではない」と認めているほどである。

この曲は第3番ト長調(K.216)とともにフランス風のギャラント様式の作品とみられ、その特徴は第3楽章に現れている。 アインシュタインは

コンチェルト第2曲(K.211)は、もちろんすでにロンドを持っている。 もっと正確にいえば、全く後期モーツァルト的なコンチェルト・ロンド形式の意味でのフランス風ロンドを持っている。 つまり独奏楽器が曲を開始し、オーケストラはその反復をしながら加わるのである。 このロンドには「活動的な」エピソードと短調のエピソードがある。 ここではメヌエット的性格を取った最も愛らしいものの一つである主題は、つねに新しい爽快さをもって帰って来る。
[アインシュタイン] p.380
と一定の評価を与えつつも、あとの楽章については「ほとんど第一番目のコンチェルト以上に初歩的である」とそっけなく言っている。 ただし、ザスローは第1番と比較してこの第2番のわかりやすさについて
モーツァルトは名人芸のための名人芸は避けていたが、この協奏曲で独奏者に求められている要求は相当のものである。 しかし、この曲が1802年に初めて出版されたときには、「やさしい協奏曲 Concerto facile」と題された。 この題名は、超絶的な名人芸の可能性にますます惹きつけられつつあった19世紀初期の姿勢を明らかにしている。
[全作品事典] p.185
と言い、この作品独自の価値を認めている。

〔演奏〕
CD [POCL-3632] t=20'44
藤川真弓 (vn), ヴェラー指揮 Walter Weller (cond), ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団 Royal Philharmonic Orchestra
1980年、ロンドン
CD [EMI CC30-9034] t=20'38
ムター Anne-Sophie Mutter (vn), ムーティ指揮 Riccardo Muti (cond), フィルハーモニア管弦楽団 The Philharmonia Orchestra
1981年11月、ロンドン
CD [claves KICC-9308/10] t=19'24
グッリ Franco Gulli (vn), ジュランナ指揮 Bruno Giuranna (cond), パドヴァ室内管弦楽団 Orchestra da Camera di Padova
1989年5月、パドヴァ
CD [POCL-4178/9] t=20'29
スタンデイジ Simon Standage (vn), ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music
1990年8月、ロンドン
CD [Virgin Classics, 7243 5 61576 2 0] t=19'09
ハジェット Monica Huggett (vn, cond)指揮, Orchestra of the age of enlightenment
1991年3月、ロンドン
CD [WPCS-12354/5] t=19'43
ギドン・クレーメル (vn), クレメラータ・バルティカ
2006年8月、ザルツブルク音楽祭でのライブ録音、全カデンツァは R.D.レヴィンによる

〔動画〕

〔参考文献〕


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2016/07/24
Mozart con grazia