Mozart con grazia > ピアノ協奏曲 >
17
age
61
5
62
6
63
7
64
8
65
9
66
10
67
11
68
12
69
13
70
14
71
15
72
16
73
17
74
18
75
19
76
20
77
21
78
22
79
23
80
24
81
25
82
26

83
27
84
28
85
29
86
30
87
31
88
32
89
33
90
34
91
35
92

ピアノ協奏曲 第12番 イ長調 K.414 (385p)

  1. Allegro イ長調 4/4 協奏風ソナタ形式
  2. Andante ニ長調 3/4 序奏をもつ二部形式 協奏風ソナタ形式
  3. Allegretto イ長調 2/4 ロンド形式
〔編成〕 p, 2 ob, 2 hr, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1782年晩秋 ウィーン

オカールは1779年から1782年までをモーツァルトの成熟期と言っているが、1781年5月にザルツブルクの大司教と決別し、1782年8月にはコンスタンツェと結婚することで父レオポルトの束縛からも完全に自由になり、まさに成熟するための道を自らの強い意志をもって歩み始め、ウィーンに定住した彼は精力的に音楽活動を開始していた。

1782年12月28日、ウィーンからザルツブルクの父へ
もう5時半ですが、ちょっとした音楽をするために6時に人が来るように言ってありますから、大急ぎで書かなければなりません。 概してとても忙しくて、時にはてんてこ舞いをすることもあります。 朝から2時まではずっと、レッスンで駆け廻ります。 それから食事です。 食後にはいくら何でも、私の可哀そうな胃袋に消化のために小一時間の暇を恵んでやらなければなりません。 それからが、いくらか作曲のできる唯一の夕べの時間です。 それさえ、時々発表会に呼ばれるので、確かではありません。 ところで、予約演奏会のための協奏曲が、まだ2つ足りません。 出来た協奏曲は、むずかしいのとやさしいのの丁度中間のもので、非常に華やかで、耳に快く響きます。 もちろん空虚なものに堕してはいません。 あちこちに音楽通だけが満足を覚える箇所がありながら、それでいて、通でない人も、なぜか知らないながらも、きっと満足するようなものです。
[手紙(下)] pp.84-85
ここに彼の音楽に対する美学が明らかにされていて非常に興味深い手紙であるとともに、極端に少ない作曲時間にもかかわらずあれほどの傑作を次々に書き上げることができた神業的な作曲活動を含む日常生活の一端が書かれている。 このとき彼自身のための予約演奏会用のピアノ協奏曲が既に作曲されていて、さらにあと2曲必要としていたことがわかる。 モーツァルトの言葉による「むずかしいのとやさしいのの丁度中間のもの」として「出来た協奏曲」というのがこのピアノ協奏曲「第12番イ長調」(K.414)である。 そして「まだ2つ足りない」というのが「第11番ヘ長調」(K.413)と「第13番ハ長調」(K.415)である。 3曲をまとめて「ウィーン協奏曲」ということもあり、その中でこの「第12番イ長調」が第1番に置かれている。 のちに3曲がアルタリア社から「作品4」として出版されたとき、その「作品4の1」がこの曲だったからである。

第2楽章の主題に、この年の1月1日に亡くなったクリスティャン・バッハのオペラ「誠意の災い」序曲からそっくり借用している。 モーツァルトは4月10日の父への手紙で「イギリスのバッハが亡くなったことはもう御存知ですね? 音楽界にとってなんという損失でしょう!」と書いていたように、その死を悼んでこのピアノ協奏曲を捧げたのだろう。 アンダンテはポリフォニックで瞑想的になって『アヴェ・ヴェルム』(K.618)を思わせる。 ロンド形式の第3楽章は「ピアノと管弦楽のためのロンド」(K.386)との関連が指摘されている。 このような「室内楽のように繊細な」協奏曲についてロビンズ・ランドンは「悲しみでもなければ幸せでもないという、謎の言葉で書かれている」と評している。

第11番 K.413、第13番 K.415 とともに4ドゥカーテン(18フローリン)で、「作曲者自身が校閲した、美麗に写譜されたもの」を予約者に頒布するという方法で、1783年1月15日の「ウィーン日報」に広告を出したが反響がなかった。 そのとき「これら3曲は、管楽器を伴う大オーケストラでも、ヴァイオリン2部、ヴィオラ1部、チェロ1部による四声部でも演奏可能である」と宣伝しているが、売れないのは金額が高いせいかもしれないと感じるところもあったのか、1月22日には「ウィーン日報」にもう3回も広告をだしたことと「金額が高すぎるとは思わない」ことをザルツブルクの父に伝えている。 また、その手紙では「一定数の予約者を確保するまで手放さない」といい、この時点でまだ写譜は作られていなかった。
そこで、4月になって、以前「選帝侯妃ソナタ(プファルツ・ソナタ)」を出版した(1778年)ことで縁のあるパリのシベール(Jean Georges Sieber, 1738~1822)に「ウィーンのアルタリアが欲しがっているけど、あなたに優先権をあげます」と話を持ちかけ、30ルイドール(約340フローリン)で印刷出版しようともしたが実現できなかった。 そのときは、「フル・オーケストラでも、オーボエとホルンをつけるだけでも、あるいは単に四重奏でも演奏可能だ」といっている。

1784年4月、ザルツブルクのレオポルトはドーナウエッシンゲンのヴィンター(Sebastian Winter, 1744~1815)にこれら3曲のピアノ協奏曲を「最新作で、1曲4ドゥカーテン」として送っている。 ヴィンターはかつてモーツァルト家の従僕であったが、1764年に故郷ドーナウエッシンゲンに帰り、フォン・フュルステンベルク侯(Joseph Wenzel Fürst von Fürstenberg, 1728~83)に仕えていた。 これに対してヴィンターを介して20フローリンがウィーンのモーツァルトに送金された。 1年前「3曲で18フローリン」と売り出したが買い手がつかず、そしてこの年レオポルトは「1曲で18フローリン」としたにもかかわらず、モーツァルトが得たのは結局「3曲で20フローリン」となった。 そして、ようやく1785年3月アルタリア社から「作品4」として出版されたが、そのときの値段は「1曲2フローリン30クロイツァー」だった。 低価格にするだけでなく、楽器編成についても「オーボエ2部、ホルン2部は任意」となっていて、省略して演奏も可能であるとしている。 ウィーンの音楽愛好家が室内楽として手軽に楽しめる商品にしなければならなかったのである。

自筆譜はポーランド、クラクフのヤギエロンスカ図書館(Biblioteka Jagiellońska)所蔵。 また、モーツァルト自身によるカデンツァが残っていて、マルブルクの図書館(Westdeutschen Bibliothek Marburg)に第1と第2楽章のカデンツァとアインガングが、さらにチュービンゲン大学図書館(Universitätsbibliothek Tübingen)にも2つのカデンツァが所蔵されている。

〔演奏〕
CD [WPCC-5277] t=25'57
ピリス Maria Joao Pires (p), ジョルダン指揮 Armin Jordan (cond), ローザンヌ室内管弦楽団 Orchestre de Chambre de Lausanne
1976年12月
CD [TELDEC WPCS-10100] t=24'40
エンゲル (p), ハーガー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム
1976年
CD [Royal Classics ROY 6412] t=25'50
エッシェンバッハ Christoph Eschenbach (p, cond) 指揮, ロンドン・フィル London Philharmonic Orchestra
1980年頃
※カデンツァはモーツァルト
CD [ARCHIV 413 463-2] t=24'47
ビルソン Malcolm Bilson (fp), ガードナー指揮 John Eliot Gardiner (cond), イングリッシュ・バロック・ソロイスツ English Baroque Soloists
1983年、ロンドン
※古楽器による演奏。 フォルテピアノはアントン・ワルターのレプリカ(1977年ベルト Philip Belt 製)
CD [COCO-78049] t=24'34
ミグダル Marian Migdal (fp), ビョルリン指揮 Ulf Bjoerlin (cond), カペラ・コロニエンシス Cappella Coloniensis
1984年

〔動画〕

〔参考文献〕


Home K.1- K.100- K.200- K.300- K.400- K.500- K.600- App.K Catalog

2014/05/18
Mozart con grazia