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ピアノ三重奏曲 第6番 ハ長調 K.548

  1. Allegro ハ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante cantabile ヘ長調 3/4 ソナタ形式
  3. Allegro ハ長調 6/8 ロンド形式
〔編成〕 p, vn, vc
〔作曲〕 1788年7月14日 ウィーン
1788年6月






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よく知られているように、このころからモーツァルトは盟友のプフベルクに何度も借金を申し出るようになった。 この三重奏曲が書かれたひと月ほど前、次の手紙を送っている。

1788年6月17日以前、プフベルクへ
もしあなたが、1年か2年、1000もしくは2000グルデンを然るべき利子で貸して、私を援助してくださろうという愛と友情をお持ちでしたら、どんなにか日々の仕事の助けとなるでしょう。
ある程度の、少なくとも必要不可欠な貯えがなければ、物事は順調に行きません。 人は無一文では、なにごともできません。
[書簡全集 VI] p.461
そして住居の家賃のことでさらに差し迫った状況にあることから次のように続けている。
私にとってきわめて重要な件で、私はあなたに心をまったく打ち明けて、つまり真の盟友としてお話ししています。
どうぞせめて明朝までに2、300グルデンだけでもお貸しくださるようお願いします。 ラントシュトラーセの家主がひどく無遠慮な人なので、(面倒を避けるために)その場ですぐに支払わなくてはなりませんでした。
プフベルクは早速200グルテンを送ったことから、モーツァルトは6月17日に、ヴェーリンガーシュトラセ(当時ヴェーリンガーガッセ)に引越し、上の手紙で以下のように報告している。
私たちはきょう初めて、新しい住居に泊まります。 そこで夏と冬を過ごすことにします。 これまでより良くはないにしても、まあ似たりよったりです。 どのみち街中にはたいして用事はないし、そこだとやたら来客に煩わされることもないので、前より余裕をもって仕事ができます。
そして盟友に感謝してホ長調の三重奏曲(K.542)を書いたといわれる。 それに続いて、ほぼ1ケ月後の7月中旬に、このハ長調の三重奏曲が作曲された。 新しい住居に引越してからモーツァルトは水を得た魚のように意欲的に仕事に取り組んだことがわかる。
3ケ月少々の間に、モーツァルトは多楽章から成る室内楽とオーケストラの大曲を、7曲完成させた。 通して演奏すれば4時間以上かかるその7曲とは、ヴァイオリンとピアノのためのソナタ1曲、弦楽三重奏曲1曲、ピアノ三重奏曲2曲、交響曲3曲である。 そのすべてが、同じカテゴリーの旧作とは異なるコンセプトと形式構成の範例を作り出している。
[ヴォルフ] p.112
ここに書かれたピアノ三重奏曲とは、もちろんホ長調(K.542)とハ長調(K.548)の2曲である。 この2曲を含めてすべてを、盟友プフベルクの援助に感謝して彼に捧げるために書いたと考えるのは単純すぎる。 モーツァルトはプロの作曲家としての大成功を目指して(その象徴的な目標はウィーンの宮廷楽長だったのだろうが)自分の仕事を「余裕をもって」したかったのであり、ヴォルフが言うように「やりたい仕事の具体的な計画があった」からこそ短期間のうちに7曲もの大作を仕上げたのだろう。
2つのピアノ三重奏曲ホ長調K542とハ長調K548は、特定の演奏機会のためではなく、ウィーンの出版社アルターリアから期限を切られる形で作曲されたことが明らかである。 それらは完成後大急ぎで、出版に付された。 1788年11月11日の新聞広告からわかるのは、両曲が1787年完成の変ロ長調K502を含めた3つのピアノ三重奏曲のセットとして、同年末までに市場に出た。
[ヴォルフ] p.113

さて、この三重奏曲ハ長調(K.548)について、ファゴット奏者で音楽学者のヘルヤーは

音楽学者のアルフレート・アインシュタインはこの三重奏曲を「古典派の勝利」と呼んでいる。
[全作品事典] p.355
と書いているが、アインシュタインはそれほど高い評価をしているようには見えない。 むしろ酷評していると言っても過言ではない。 ピアノを中心とする三重奏曲にはクラリネットとヴィオラを伴う『ケーゲルシュタット』(K.498)が2年前に書かれていて、それに対してアインシュタインは「音楽が与えうる形式感情の終局のものが、ここでついに発言されているのである」と絶賛し、また、そのあとに書かれたヴァイオリンとチェロを伴うピアノ三重奏曲「変ロ長調 K.502」と「ホ長調 K.542」に対しては
ピアノ三重奏曲の枠内で表現すべきいっさいをコンチェルト風に表現している。 変ロ長調とホ長調のいずれをすぐれているとみなすかは、永久に決定しがたいと言える。
[アインシュタイン] p.359
と高く評価しているが、しかし、その後に続く最後の二曲(K.548、K.564)は「残念ながらもはやこのような高みを維持していない」と、まったく平凡な作品と酷評している。 最後のト長調(K.564)は「明らかに初心者用である」と切り捨て、もう一つのこの曲に対しては
血の気のうすい先駆者のような感じを与える。 これは古典的巨匠の作品であるが、三つの三重奏曲の傑作のような案出の『活気』を持たないし、また主題の密度もない。 ただアンダンテ・カンタービレだけが、その柔和な宗教性において無限に感動的なものを持っているばかりである。
同書
と手厳しく言い、モーツァルトのような巨匠がこのような曲を書き残したことを残念がっているようである。 「血の気のうすい先駆者」とは同じハ長調で書かれ、8月10日に自筆目録に載せられた「交響曲第41番ジュピター K.551」の直前に位置しながら、その偉大なシンフォニーに比べて軽薄だという意味である。 なお、アインシュタインが傑作と言っている三つの三重奏曲とは上記の K.498、K.502、K.542 のことのようである。 しかし、かつてのアインシュタインの評価が今でもそのまま受け入れられているわけではない。 この三重奏曲(K.548)が書かれたモーツァルトの円熟期の頂点ともいわれる1788年の作品群を「自作目録」でながめたとき、オカールは
堂々としたものと小規模なもの、悲劇的なものとギャラントなもの、このような一連の異質な作品を前にすると、誰しも当惑せざるをえない。 「やさしいソナチネ」(K.545)が恐るべきハ短調の前奏曲と同じ日に書かれているとは!
[オカール] p.145
と驚きを隠していない。 ここでオカールは、3月19日の『アダージョ ロ短調』(K.540)から8月10日の交響曲『ジュピター』(K.551)までが並んでいるのを見て、その中に二つのピアノ三重奏曲(K542、K548)と『やさしいソナチネ』(K.545)が混じっていることに、しかも『やさしいソナチネ』が「恐るべきハ短調」(K.546)と同じ日(6月26日)に書かれていることに驚いているのである。 その上で、彼は「これらの明るい作品にみられる透明で、浄化された、輝かしい性格は、すでに最後のモーツァルトなのである」と捉え、
このことは不当にも1786年のものよりも劣ったものとされている、K542、K548の二つのピアノ三重奏曲にはっきりと現れている。 K545のソナータが「やさしい」のはただ名称だけのことである。 音の素材が薄手の陶器のようにもろくみえるこの小品の透明さを表現できるのは、きわめて偉大なピアニストだけなのだ・・・。
同書 pp.145-146
と続けている。 モーツァルトの矛盾した二面性(たとえば、バルトの言葉「陽光と嵐、昼と夜、その両面をともに具えている」など)を理解するならば、この曲についてもはや「血の気のうすい」などと単純に切り捨てることのできない、繊細で豊かな叙情的な面が見えてくるだろう。 ピアノがリードする曲の運びは変わらないが、チェロはピアノの低音の補強から離れ、2つの弦がそれぞれピアノと協奏するようになる。 特に第2楽章でチェロが歌う副主題は美しく、演奏者ならずともウットリとする。 彼は実生活の喜怒哀楽をそのまま作品に反映させるような野暮な作家ではなかったが、この曲が書かれた2週間前に長女テレジアが病死したことを思えば、力強さと優美で穏やかな曲想が同居するこの曲から、作者が心の平穏を取り戻しているのを感じないわけにはいかない。

この曲は三重奏曲「ホ長調 K.542、変ロ長調 K.502」と合わせて「作品15」として1788年にウィーンのアルタリア社から出版されたが、これらの曲が出版だけを目的に書かれたものと断定するのは難しい。 はっきりしたことは分からないが、演奏される機会もあったと考えるのが自然である。 父レオポルトは前年(1787年)5月に他界しているため、モーツァルトの作曲活動を知る貴重な資料(つまり手紙)がないのが残念である。

モーツァルトの作品すべてに関して、初演の日付や状況が知られているわけではないが、だからといって、初演情報がない作品には聴衆がいなかった、つまり、これらの作品は演奏されなかったということではない。 モーツァルトは、具体的な目的なしに作品を書き記すことは決してなかったからである。 いつの日にか演奏されることを願いながら、作曲したものを机の引き出しにしまうということをモーツァルトはしなかった。
[ビーバ] p.44

〔演奏〕
CD [EMI CHS 7697962] t=20'13
クラウス (p), ボスコフスキ (vn), ヒューブナー (vc)
1954年、ウィーン楽友協会ホール
CD [ミュージック東京 NSC173] t=28'36
ニコルソン (fp), ハジェット (vn), メイソン (vc)
1983年7月
※フォルテピアノは1797年頃ウィーンのシャンツ製、ヴァイオリンはストラディヴァリウスのレプリカ(ロス製1977)、チェロ同(1979)
CD [TKCC-15110] t=17'17
ズスケ (vn), オルベルツ (p), プフェンダー (vc)
1988-89年
CD [ミュージック東京 NSC207] t=19'37
カイト (fp), マッキントッシュ (vn), コンバーティ (vc)
1990年頃?
CD [EMI TOCE-55837/38] t=20'17
バレンボイム (p), ズナイダー (vn), ズロトニコフ (vc)
2005年

〔動画〕

〔参考文献〕


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2019/04/14
Mozart con grazia