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交響曲 第34番 ハ長調 K.338

  1. Allegro vivace ハ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante di molto ヘ長調 2/4 ソナタ形式
  3. Allegro vivace ハ長調 6/8 ソナタ形式

〔編成〕 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, bs
〔作曲〕 1780年8月29日 ザルツブルク

1780年8月

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ザルツブルク時代に書かれた最後のシンフォニー。 作曲の動機ははっきりしないが、ミュンヘン選挙侯カール・テオドールの依頼による音楽劇「イドメネオ」(K.366)の稽古のためにザルツブルクを離れる(11月5日)のに先立ち、その別れの演奏会のため、あるいは、ミュンヘンへの土産のためのどちらか(その両方か)と考えられている。

よく知られているように、モーツァルトは母と二人で就職活動のためパリへ目指して旅立ったことがある。 それは1777年9月から1779年1月までの間であったが、モーツァルトは肝心のパリよりもマンハイムやミュンヘンで得るものが大きかった。 彼は成人した音楽家としてマンハイム・オーケストラをその地でじかに研究することができ、

その直接の成果にパリでの体験を加えてできたのが、ニ長調K297で、この曲はクラリネットを含み、18世紀としては最大の編成で書かれている。 『パリ』シンフォニーとして知られているこの曲は、モーツァルトの「マンハイム期」の目を見張るような成果である。
[ランドン] p.169
と言われている。 ただし、モーツァルトの場合、新たな研究によって吸収した成果が現れるのは少しあとになってのことが多く、ランドンは次のように続けている。
マンハイムの影響もK318K319、K338という三部作の中で真に結実することになるのだが、そのうちトランペットとティンパニを伴うハ長調K338は、それまでの中で最も偉大な作品であることに間違いない。
ハ長調という調性は宗教的な力と世俗的な力の双方に結びついていると言われるが、ランドンによれば、特にモーツァルトのハ長調の壮麗さの中で、この曲では符点リズムの応用により輝かしい訴求力に富む音楽を作り上げているという。
このモーツァルト好みのマーチ的モティーフは、この曲の第1楽章の至るところで活躍するのだが、極めて特徴的なのはまず第3小節でホルンとトランペットによって予告され、それが第7、11、13小節・・・というふうにフル・オーケストラで繰り返されるというやり方である。 これにより、われわれは絶えず符点の存在に接することになるが、それは、終りの小節群までつづいている。
同書 p.87

モーツァルトの最後のシンフォニー『ジュピター』(K.551)も奇しくもハ長調である。 アインシュタインはモーツァルトが選んだ調性について、以下のように解説している。

モーツァルトはあらゆる場合に、はなはだ慎重に調性を選んだとはいえ、彼において調性は中立的である。 彼のハ長調、ニ長調、変ホ長調は彼にとって、同時代人にとってよりも豊かな広い領域を意味し、薔薇も成長するが糸杉もまた成長することのできる肥沃な土壌であった。
・・・
彼の調性の中立性、あるいはむしろ多義性、虹色めいた性質は、彼の展開部においてはあまりはっきりとは認められない。
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彼は展開部においては、つねに飽くことを知らずに調性をたしかめるのであった。
・・・
最も平明な、最もやさしい調性であるハ長調が、右のことによってすばらしい目的となり、輝かしい出現となる。 このような処理は成熟したモーツァルトがはじめて達成したことではない。 それは例えばすでに、ザルツブルクで書かれた最後のハ長調シンフォニー(K.338)のなかで十分に明瞭に現れている。 ここでモーツァルトはすでに、提示部のなかでハ長調とト長調の明るさを、あらゆる屈折した光、ヘ長調、ヘ短調、ト短調、ニ長調、ホ短調によって色づける。 主音から属音への道は平坦ではなくて、人を興奮させるような体験に満ちている。 ハ長調は決してやさしい調性ではない。
[アインシュタイン] pp.229-230
モーツァルトは最初4楽章構成として考え、第2楽章にメヌエットを置くつもりであったが、それは必要ないと感じたのか、破棄した。 その名残が第1楽章終りの裏ページに14小節だけ打ち消し線を引いた形で残っている。 しかし第2楽章メヌエットという構想がモーツァルトの念頭にあったとすれば不思議と言わざるを得ない。 形式については保守的ともいえるモーツァルトが第3楽章ではなく第2楽章にメヌエットを置くつもりだったという推測は第1楽章の裏に残された数小節のメヌエット楽章がその根拠となっているが、彼が第2楽章にメヌエットを置いた交響曲作品は だけであり、ザスローが「謎」と言っているように、もしこのハ長調交響曲の第2楽章にメヌエットが置かれたとすれば、(メヌエットは第3楽章におくのを習慣とした)モーツァルトにとって異例中の異例となり、そうせざるを得ない特別の理由が必要であったことになる。 しかし破棄された以上、作曲者はそこにメヌエットを必要としなかったことは確かである。 あるいは消された形で残された数小節のメヌエットは別の意図があったものとも考えられ、謎は謎のまま残る。 なお、このメヌエットに関して野口秀夫による詳細な研究があり、氏のウエブサイトで見ることができ、またそこに演奏例(t=3'08)がある。

アインシュタインは、のちにウィーンで書かれた交響曲では第3楽章にメヌエットが置かれることがほとんどだったことから、この作品がウィーンで演奏されるときに「ハ長調メヌエット K.409」を追加したと推測していた。

(第1楽章では)ここにあるものはブッフォ的要素ときわめて深い厳粛、中立的な調性が長調から短調へと、さらにロ長調または変イ長調へと虹のように移る変化、明朗さ、力、そして熱情である。 二群に分たれたヴィオラと、管楽器の唯一の代表者ファゴットと伴う弦楽器群だけで奏される《アンダンテ・ディ・モルト》は、終始生き生きした歌になっている。 フィナーレはプレストであるが、疾過の趣きはなく、精神、機智、憂愁、茶目っ気に満ちている。 追加作曲されたメヌエット(K.409)は、モーツァルトの書いたメヌエットのうちで最も堂々たるものの一つであって、トリオでは管楽器群が協奏する。 モーツァルトは、ザルツブルクにはまだなかったフルートをも考慮に入れている。 もちろんヴィーンで両端楽章(そしておそらくアンダンテ)のためにフルートを入れたのである。
同書 p.316
ただし現在は、メヌエット K.409 を追加作曲したという推測は否定されている。 そのメヌエット(三部形式 89小節、そのうち木管三重奏のトリオ 41小節)は後の3大交響曲のメヌエットに匹敵するほど大きく、楽器の編成にも問題があるため、その後シュナップ説「K.409 は独立した曲であり、踊るためではなく、第1回アウガルテン演奏会(1782年5月26日)での挿入曲として演奏されたものである」が支持されている。 なお、その演奏会でこの交響曲が演奏されたと言われていたが、新全集の編者は否定し、かわりに『パリ交響曲』(K.297)であると訂正している。 この作品(K.338)が演奏された機会ははっきりしていない。 この1年前、モーツァルトがまだザルツブルク大司教に仕えていた頃、そして主従関係が決裂する直前にウィーンで次のような音楽会があった。
1781年4月3日火曜日、ケルントナートーア近くの帝室王室特典劇場で、設立された音楽芸術協会のために「大音楽会」が催される。 その最初にザルツブルク大司教の尊き慈悲に仕える騎士ヴォルフガング・アマデー・モーツァルトの作曲による交響曲が演奏される。
次にモーツァルト氏はピアノ・フォルテの独奏をする。 彼はまだ7才の少年の頃当地にいたことがあるが、当時既に作曲に関する考え方だけでなく技巧一般、演奏の巧みさ、趣味の点で聴衆の大喝采を博していた。
[ドイッチュ&アイブル] pp.156-157
このときウィーン宮廷楽長ボンノの指揮によりこの交響曲(K.338)が演奏されたとも言われているが、しかしここでも演奏されたのは『パリ交響曲』だったとする説があり、はっきりしない。 モーツァルトの楽譜資料の研究に詳しい西川尚生によれば、この交響曲のパート譜のうち、とりわけヴァイオリン・パートが多いことが目立ち、その理由として次の興味深い点を指摘している。
1781年4月3日にケルントナートーア劇場で催された演奏会では、モーツァルトの交響曲が92人から成る大オーケストラによって演奏されているが、実は、このときの演目がこのK338、もしくは『パリ交響曲』K297(300a)だと推測されているのである。 楽譜内容のより詳細な検討が必要だが、K338のヴィーン製のヴァイオリン・パート譜は、モーツァルトが通常より編成の大きい音楽芸術家協会のオーケストラに合わせて準備したものとも考えられる。
[樋口] p.220
ちなみにこのときモーツァルトが独奏したピアノフォルテの曲は「私はランドール Je suis Lindor」を主題にした「12の変奏曲」(K.354)であり、楽器はトゥーン伯爵夫人所有のシュタイン製のものだった。

のちに、1786年にフュルステンベルク侯爵が、新作の交響曲集という宣伝を嘘と知りながら、「第33番 変ロ長調 K.319」、「第36番 ハ長調(リンツ)K.425」などと共に買ってくれた。 この作品が出版されたのは、作曲者の死後、1797年であった。

〔演奏〕
CD [ポリドール F35L 50253] t=21'09
ホグウッド指揮
1979年
CD [NAXOS 8.557239] t=23'14
ティントナー指揮シンフォニー・ノヴァ・スコシア
1989年2月、カナダ、ハリファックス、ダルハウジー・アート・センター (ライブ録音)
CD [Membran 203300] t=19'47
Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino
演奏年不明

〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=aBDykyJuKJg] I. t=7'50
[http://www.youtube.com/watch?v=o4GvIpnFy4s] II. t=7'42
[http://www.youtube.com/watch?v=6i_iA1eXcTM] III. t=6'48
ベーム指揮、ウィーン・フィル
[http://www.youtube.com/watch?v=ar1wj0SeasE] t=21'36
Anatolij Levin (cond), Symphonic Orchestra of the Moscow Conservatory
[http://www.youtube.com/watch?v=ehrOvpiF4nY] t=28'13
Philippe Bernold (cond), Sinfonia Varsovia
10 July 2008, Saoû chante Mozart, Eglise de Nyons

〔参考文献〕

 

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2012/05/27
Mozart con grazia