Mozart con grazia > 交響曲 >
17
age
61
5
62
6
63
7
64
8
65
9
66
10
67
11
68
12
69
13
70
14
71
15
72
16
73
17
74
18
75
19
76
20
77
21
78
22
79
23

80
24
81
25
82
26
83
27
84
28
85
29
86
30
87
31
88
32
89
33
90
34
91
35
92

交響曲 第33番 変ロ長調 K.319

  1. Allegro assai 変ロ長調 3/4 ソナタ形式
  2. Andante moderato 変ホ長調 2/4 ソナタ形式
  3. Menuetto 変ロ長調 3/4 複合三部形式
  4. Allegro assai 変ロ長調 2/4 ソナタ形式
〔編成〕 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 vn, 2 va, bs
〔作曲〕 1779年7月9日、ザルツブルク(メヌエットは1785年、ウィーン)
1779年7月



1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031

上記作曲の日付は自筆譜に書かれたものだが、その作曲の動機は不明。 ザスローは、モーツァルトの作品をレパートリーにしていたベーム(Johann Heinrich Böhm)劇団一座のために作曲されたと推定している。

ベーム一座は、1779年の4月終わりから6月初めにかけて、ザルツブルクに初めてやって来た。 そのとき、モーツァルト一家はベームをはじめ多くの主役級の役者たちと知りあいになった。 この一座は50人近くの役者、踊り手、歌手を擁し、同じ年の9月初めにザルツブルクに戻ってきて、1780年の四旬節が始まるまで滞在していた。 したがってK.319は、彼らがザルツブルクに戻ってくることを予想して作曲されたという可能性がある。
[全作品事典] p.253
この時期のモーツァルト一家を知る貴重な資料として姉ナンネルの日記帳があるが、なぜか6月16日から9月14日までのページが失われているという。 そのためこの曲についての事情が見えてこないのは残念である。 ただし、ナンネルは演奏会があったことを記すのみで、曲名まできちんと書くことがなかったので、たとえ肝心のページがあったとしても有力な情報は得られないだろう。 なお、ザルツブルクとウィーンでそれぞれ作成されたパート譜が残っていて、演奏の機会があったことがわかる。
ザルツブルク製の楽譜のうち、3つのパート譜(第1、第2ヴァイオリン・パート各1部とコントラバス・パート)は、モーツァルト家と密接な関係にあったザルツブルクの宮廷コピスト、エストリンガー(Joseph Richard Estlinger, 1720頃-91)によるもので、使用されている用紙の透かしから、1779年頃の作成と推測される。 この作品の自筆譜に記載された日付は1779年7月9日であり、おそらくこの直後に初演されたと考えられるので、エストリンガーのパート譜はモーツァルトが初演用につくらせたパート譜セットの一部である可能性が高い。
[西川] p.211
よく知られているように、1777年9月、21歳のモーツァルトは母を伴って就職活動のためザルツブルクを旅立ったが、1778年7月パリで母を失い、1779年1月に負け犬となって帰郷し、コロレド大司教の従僕としての身分に戻っていた。 そうして1779年から1780年にかけて再びザルツブルクに縛られていたモーツァルトであるが、そのやり場のない心の反作用なのか、輝き躍動する精神が生き生きと発露する曲を書いた。
その2年間に、モーツァルトは新しい特別な音楽言語を開発するのであるが、その範囲はシンフォニー、ミサ、ヴェスペレ、セレナード、協奏曲、そして劇音楽と、広い分野に及んでいる。 この時期に書かれた3つのシンフォニーは、それまでとは違った独特な美しさを持っている。
[ランドン] p.86
就職活動は失敗に終ったが、ミュンヘン、マンハイム、パリと旅行して、優れた楽団に接したことによる成果はあり、どのような事情があったのか不明だが、ザルツブルクでの最後の交響曲3作(第32番ト長調 K.318、第34番ハ長調 K.338と並んで)が生まれた。 これら3作のシンフォニーはどれもメヌエットを持たない3つの楽章で構成された曲であった。 第一作ト長調は「きらきらと輝き、光彩に満ちた」曲であるのに対し、
次の作品は抒情的な変ロ長調のシンフォニーK319で、ハイドンやその後継者ヴァニハルらの好んだような、オーストリアの伝統の室内シンフォニーである。 そうした伝統に従って、トランペットとティンパニを廃し、その譜面は羽根のような軽さで書かれている。
同書 p.87
この交響曲の特徴の一つに終楽章を除く各楽章で「ドレファミ」のジュピター主題が使われていることが指摘されている。
(第1楽章の)展開部のはじまりのところで、モーツァルトの《座右銘》、つまりのちに『ジュピター・シンフォニー』で浄化される音符4つのモティーフが、モティーフの争いのなかに投げこまれるとき、われわれは不意を打たれるが、実はこれは不意打ちではない。
[アインシュタイン] p.315
もっと具体的にザスローは明示している。
第1楽章の展開部では、4つの音符によるモットー「ド・レ・ファ・ミ」が、第143~146小節と第151~154小節に登場する。 それは形を変えてアンダンテの第44~47小節に、そしてメヌエット(第9~12小節)とトリオ(第1~4小節)にもあらわれる。
[全作品事典] p.253
この「ド・レ・ファ・ミ」という音のつながりは有名な『ジュピター交響曲』(K.551)で徹底して扱ったことから「ジュピター音形」と呼ばれるが、海老沢によると「時代を越えてヨーロッパ音楽の中に根ざす象徴的な音形」であるという。
ただたんにモーツァルトの専売特許であったばかりでなく、実にさまざまな時代の、さまざまな作曲家によって、用いられているものでもある。 それは16世紀の巨匠パレストリーナのモテットやアレッサンドロ・スカルラッティのミサから、バロック音楽の代表者バッハの『平均律クラヴィーア曲集』第2巻ホ長調フーガ、ヘンデルのオラトリオ『マカベアのユダ』第3幕「天の父よ」、さらにモーツァルトの師にして友であるハイドンの『交響曲第13番ニ長調』第4楽章から、ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調・月光』第2楽章トリオ、シューベルトの『ミサ ヘ長調』クレード、メンデルスゾーンのオラトリオ『聖パオロ』第30曲二重唱にも及んでいる。
[海老沢] pp.19-20
そして、モーツァルトの専売特許としては、交響曲第1番変ホ長調(K.16)から始まって
ヘ長調のミサ・ブレヴィス(K.192 = 186f)やハ長調のミサ(K.257)のごとき声楽曲や、第33番変ロ長調(K.319)のような交響曲で、およそ10回を越えて用いている。
このようにして生まれた変ロ長調交響曲を、のちにモーツァルトは再び取り上げた。 すなわち3楽章構成のイタリア風を、メヌエットを加えて4楽章から成るウィーン風にしたのである。 追加されたメヌエットは、タイソンによる五線紙の研究により、1785年6月から年末にかけて書かれたと考えられている。 そしてウィーンのアルタリアから『ハフナー交響曲』(K.385)とともに「作品7の2」として出版された。 この1785年は全部で21曲が出版され、モーツァルトにとって実りの多い年である。 もちろん出版だけが目的ではなく、実際に演奏する機会があったはずである。 その年の2月から4月にかけて、父レオポルトがウィーンを訪問し、息子が休む暇なく演奏会を催す姿を見ていた。 モーツァルトはこの交響曲(K.319)を思い出し、ウィーンの聴衆に合うように仕立て直して使ったのだろう。 ウィーンで作成された9つのパート譜が残っている(ただしモーツァルト生前のものか没後のものかは不明であるが)ということは、この曲が演奏会用として使われた可能性を示唆していると考えられる。

メヌエットが追加される前からこの曲はウィーンで広く知られていた可能性がある。 19世紀前半に活躍した音楽家ラノワ(Heinrich Eduard Josef von Lannoy, 1787-1853)は厖大な数の楽譜類を蒐集し所蔵していたが、その中にモーツァルトのこの交響曲の筆写譜(トレーク由来のもの)があるというのである。

ラノワ・コレクションの筆写譜はもともと3楽章構成の稿を記した楽譜であるが、全14パートのすべてに、あとからメヌエット楽章の音符が余白に記入されるか、もしくはこの楽章を記譜した一枚の五線紙が挟み込まれ、4楽章構成でも演奏できるように改編されている。
[西川] p.213
この改編がなされたのかは当然のことながら、モーツァルトがアルタリアから「作品7の2」を出版した後になるだろう。 そしてまた、この交響曲はメヌエットが追加される前からウィーンの音楽愛好家の間で好まれていたのではないかと思われ、だからこそモーツァルトはメヌエットを追加して出版すれば「売れる」と判断したのだろう。

余談であるが、1786年にモーツァルトは3曲の交響曲(第33番変ロ長調 K.319、第34番ハ長調 K.338、第36番ハ長調 K.425)と3曲のピアノ協奏曲(第16番ニ長調 K.451、第19番ヘ長調 K.459、第23番イ長調 K.488)の写譜をヴィンターを介してフォン・フュルステンベルク侯爵に送っているが、このとき送った写譜は当時のウィーンの三大写譜工房の一つであったトレーク(Johann Traeg, 1747-1805)のものだったらしい。

1786年夏に、ドナウエッシンゲンのフュルステンベルク侯爵に3曲の交響曲と3曲の協奏曲の筆写譜を売っているが、その際、モーツァルトはコピストに新たに筆写譜をつくらせてそれを売るのではなく、トレークがヴィーンで販売していた当該作品の筆写譜を入手し、それを相場より高い値段で侯爵に転売する、という方法をとったといわれている。
同書 p.204
このときモーツァルトが送ったのはメヌエット追加のない3楽章の筆写譜だったのだろうか?

〔演奏〕
CD [DENON 28CO-2145] t=22'12
スウィトナー指揮ドレスデン・シュターツカペレ, Otmar Suitner, Die Staatskapelle Dresden
1965年3月、ドレスデン、ルカ教会
CD [ORFEO C 301 921 B] t=18'24
ベーム指揮ウィーン・フィル, Karl Boehm, Wiener Philharmoniker
1969年8月6日、ザルツブルク Salzburg Festival
CD [ポリドール FOOL-20372] t=23'15
ホグウッド指揮AAM, Christopher Hogwood, Academy of Ancient Music
1979年か80年、ロンドン
CD [ERATO WPCS-6155/6] t=22'35
コープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団, Ton Koopman, The Amsterdam Baroque Orchestra
1987年8月、アムステルダム, Waalse kerk Amsterdam
CD [PMG CD 160 114] t=t=24'04
リッチオ指揮モーツァルト・フェスティヴァルO, Alberto Lizzio, Mozart Festival Orchestra
演奏年不明
CD [Membran 203300] t=20'54
Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino
演奏年不明

〔動画〕

〔参考文献〕

 

Home K.1- K.100- K.200- K.300- K.400- K.500- K.600- App.K Catalog
 
2013/03/24
Mozart con grazia