Mozart con grazia > 幻想曲と変奏曲 >
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K.613 8つのピアノ変奏曲

作曲 1791年3月8日 ウィーン
1791年3月

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よく知られているように、晩年のモーツァルトは経済的にどん底にあり、さかんにフリーメーソンの同志プフベルクに借金を重ねていたが、しかし彼がギャンブルなどで遊び回る浪費家だったからでない。 世事にうとい天才音楽家という後世の作り話のせいで、彼の人物像が歪められたり、あるいは逆に崇められたりしてきたが、それを鵜呑みにすると、このような曲の成立は謎となる。 天才のやることだから不思議でない、と片付けるほど簡単なことはない。 幸い、判明する限りの事実を克明にたどり、人間モーツァルトの像を明らかにする研究が進み、晩年の生活についてもよくわかるようになった。 出費がかさんだおおよその理由も、そして「モーツァルトは一般に考えられていたよりずっと現実主義者であり、暮らし向きの必要に応じて、すばやく」収入源を別に求めようとしたことも。 少しでも生活のたしにしようとピアノ曲を書き、楽譜を出版することはその一つの方策であり、この曲もそんな状況の中で作られた。 彼が妻コンスタンツェに

(1790年9月28日)
ぼくたちは、すばらしい生活を送るんだ。 はたらくぞ。 はたらくんだ。 思いがけない事が急に起こって、またあのような絶望的な状態におちいることがないように。
(1790年9月30日)
ぼくはどんな場合にも確実なことをしたいものだから。 H・・と取引きをしたいのだ。 そうすれば、金が入って、支払う必要がなく、ただはたらきさえすればいいのだ。 はたらくことは、もちろん女房のために、よろこんではたらくさ。
[手紙] pp.174-176
と書いていることは決して嘘ではなく、現実を直視しつつ活路を見い出そうと必死に生きていた証しである。

主題はシカネーダーの台本にシャック(Benedikt Schack, 1758-1826)とゲルル(Franz Xaver Gerl, 1764-1827)が曲をつけた歌芝居『山地(山国)から来た馬鹿な庭師、またの名、二人のアントン(Der dumme Gärtner aus dem Gebirge)』の第2幕で庭師アントン(シカネーダーが演じた)が歌う「女ほど素晴らしいものはない(Ein Weib ist das herrlichste Ding auf der Welt)」である。 この音楽付き道化芝居は1789年夏頃からウィーンで上演され、ある調査によると、その年だけで32回も上演されるほどの大当たりとなった。 その芝居で歌われるアリアは当時よく知られていたという。 一方のモーツァルト自身のオペラはさっぱり人気がなかった。 売れるピアノ曲を作るとすれば、当時の誰でも知っている旋律を使うのは当然のことであろう。 モーツァルトがその芝居を見たことは、1790年6月、ウィーン近郊のバーデンで療養中の妻コンスタンツェに送った手紙に書き残されているので、当然その芝居の中のメロディーは頭の片隅に記憶されていたものと思われる。

シカネーダーは永住するために1789年にウィーンに来て、ウィーン郊外のヴィーデンのフライハウス劇場(1787年創設)の管理を任されていた。 彼はさっそく歌芝居を精力的に上演し、その最初の一つが「馬鹿な庭師」であった。 モーツァルトは彼との再会を喜び、もともと好きなオペラの話で意気投合していたことであろう。 双方とも一般市民を対象としたドイツ語オペラ(ジングシュピール)を上演する夢を持っていた。 まだ若いけれど才能と経験が豊富な二人を中心に、フライハウス劇場には新しい時代を予感させるものがあったであろう。

さかのぼって10年前の1780年から81年にかけて、シカネーダーは自分の一座をひきいてザルツブルクで興行したことがあった。 それはザルツブルク劇場のウインター・シーズンの興行であり、そのとき、シカネーダーはモーツァルト家に上演するすべての席に対して自由に出入りを許していた。 モーツァルトにとっては幣束した時期の唯一の楽しみであったと言ってもよい。 そのような関係があったことから、1791年3月、シカネーダーはモーツァルトに『魔笛』K.620 の作曲を依頼したのであるが、同様に親しい関係にあったゲルルのためにモーツァルトはアリア「この美しい御手と瞳に」K.612 を作曲した。 そのとき、ついでに思い出したように、この変奏曲を書こうとしたのかもしれない。 ゲルル(27歳)はシカネーダー一座の一員(作曲兼バス歌手)であり、9月30日ヴィーデンのフライハウス劇場で初演された「魔笛」で、ザラストロ役を演じている。 ちなみに、そのときシャック(33歳)はタミーノ役を、シカネーダー(40歳)はパパゲーノ役であった。

前奏も含む44小節の長さの主題はモデラート、ヘ長調、4分の3拍子で始まり、途中、第6変奏でヘ短調になり、最後の第8変奏はアレグロ、4分の2拍子でダイナミックに発展する。 この曲はすぐ出版されて売りに出された。

(1791年6月4日、ヴィーン新聞)
コールマルクトの芸術商アルターリア社で以下が新刊で入手可能。
モーツァルト氏のクラヴィーアのための12の変奏曲。 オペラ『馬鹿な庭師』のアリア《女ほどすてきなものはない》による。 40クロイツァー
[書簡全集 VI] p.629
(1791年8月27日、ヴィーン新聞)
ラウシュ楽譜店では以下の楽譜が入手可能。
楽長モーツァルト氏作曲、『女ほどすてきなものはない』のアリアによる8つの変奏曲、クラヴィチェンバロ用。 1フローリン
同書 p.674
アルタリアの広告では間違って「12の」となっていた。 余談であるが、「18世紀のヴィーンは、ロンドン、パリ、アムステルダムといった楽譜出版の中心地に比べ、印刷譜の普及が著しく遅れていた」という。
しかしモーツァルトがヴィーンに移住する3年前の1778年にアルタリア社が楽譜出版業を開始したのがきっかけとなり、ここからようやくヴィーンにおける楽譜出版が本格化する。 1780年代にはフランツ・アントン・ホフマイスター、クリストフ・トッリチェッラ、レオポルト・コジェルフなどが次々と楽譜出版を手がけるようになり、ヴィーンの作曲家たちは自作の出版という新たな収入の道を見出すこととなる。
(中略)
アルタリア社の創業以降、ヴィーンの楽譜出版が本格化したことはたしかだが、結局のところ、モーツァルト時代のヴィーンで使われた楽譜の主流は印刷譜ではなく、従来どおりの手書きの楽譜であった。 ヴィーンにはこうした筆写譜の製造・販売を手がけるコピスト(写譜師)が数多くおり、1780年代から90年代にかけて新聞に盛んに広告を出し、モーツァルトをはじめとするヴィーンの作曲家の筆写譜を大量に販売したのである。 なかでも中心的な役割を担っていたのは、ズコヴァッティ、ラウシュ、トレークの三大写譜工房であった。
[樋口] pp.201-202
ただし、上記の新聞広告でどの程度の売れ行きがあって、どれほどの収入をモーツァルトが手にしたのかはわからない。 ソロモンによれば、1791年に楽譜出版収入額を550グルデンと推定しているが、それは出版業者をアルタリア、ホフマイスター、トッリチェッラに限定したものであり、ラウシュなど他の業者の分は勘定に入れられていない。 この「8つのピアノ変奏曲」で得た収入がどれだけ生活の足しになったものか。

演奏
CD [EMI TOCE-11559] t=13'21
ギーゼキング (p)
1953年
CD [POCL-2665] t=14'34
バルサム (p)
1965年
CD [PHILIPS PHCP-3675] t=15'10
ヘブラー (p)
1975年
CD [SYMPHONIA SY-91703] t=16'37
アルヴィーニ (fp)
1990年
CD [TOCE-7514-16] t=16'18
バレンボイム (p)
1991年
 

参考文献

動画
[http://www.youtube.com/watch?v=Dv8bDhq2IpE] t=13'59
Bart Van Oort (fp)
Fortepiano by Anton Walter
[http://www.youtube.com/watch?v=jSzs7RP4UoY] (part 1) t=8'36
Ronald Brautigam (fp)
[http://www.youtube.com/watch?v=dCkbAP6FmXg] (part 2) t=6'08
Ronald Brautigam (fp)

 


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2011/08/07
Mozart con grazia