Mozart con grazia > 編曲 >
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5つのフーガ K.405

  1. ハ短調 (平均率クラヴィア曲集第2巻第1番 BWV871)
  2. 変ホ長調 (〃 第7番 BWV876)
  3. ホ長調 (〃 第9番 BWV878)
  4. ニ短調 (〃 第8番 BWV877 嬰ニ短調)
  5. ニ長調 (〃 第5番 BWV874)
編成 2 vn, va, bs
作曲 1782年? ウィーン

ウィーン宮廷図書館長を務めていたスヴィーテン男爵邸で毎日曜日に行なわれていた演奏会を通して知ったバロック時代の音楽、特にバッハやヘンデルの作品を研究していた1782年頃に書いたものと思われている。
1782年4月
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1782年4月10日 ザルツブルクの父へ
ところで、お願いしようと思っていたのですが、ロンドーを返してくださるとき、ヘンデルの6つのフーガと、エーベルリーンのトッカータとフーガも一緒に送ってください。 ぼくは毎日曜日、12時に、ヴァン・スヴィーテン男爵のところへ行きます。 そこでは、ヘンデルとバッハ以外は何も演奏されません。
ぼくはいま、バッハのフーガを集めています。 ゼバスティアンの作品だけでなく、エマーヌエルフリーデマン・バッハのも含めてです。 それからヘンデルのも。 そして、・・・・だけが欠けています。 男爵にはエーベルリーンの作品を聴かせてあげたいのです。 イギリスのバッハが亡くなったことはもう御存知ですね? 音楽界にとってなんという損失でしょう!
[書簡全集 V] p.225
ただし、まもなくモーツァルトは別のところからエーベルリンのクラヴィーア・フーガを手に入れたらしく、それがバッハやヘンデルのものに比べてあまりに陳腐であることがわかったので、わずか10日後の4月20日には姉を介して「エーベルリンの作品を写譜しなくてもいい」ことを伝えている。 これはモーツァルトにとって一大発見だったのではないだろうか。 当時のヨーロッパの主要都市を幼少の頃から見てまわり、すべてを知り尽くしたはずのモーツァルトがまだ学ぶべきものがあることを知った瞬間であろう。 そして短期間のうちにあるいは貪欲にその技法を吸収したことがうかがえる。

前年1781年5月にザルツブルクと縁を切り、ウィーンで独立した音楽家としての活動を始めたモーツァルトにとってスヴィーテン男爵との出会いは重要な意味を持っている。 男爵(当時49才)はバッハやヘンデルに傾倒し、彼らの作品を数多く収集していて、その厖大な蔵書は1万フローリンの価値があると言われていたが、モーツァルトには気前よく貸してくれて、全部、家に持ち帰ることを許してくれたという。 このようにしてモーツァルトは彼らの作品からフーガの様式と技法をマスターしたのであった。 その成果が様々なジャンルで生かされるようになったことは周知の通りである。 しかしそれは自分の作品が豊かで強固なものにするための一つの道具であり、それを最高なものと考えたわけではない。 モーツァルトの絶筆と言われている『レクイエム』(K.626)の「ラクリモサ」について、都筑正道は次のように言っている。

モーツァルトは「ラクリモサ」の最後の「アーメン・コーラス」をフーガで終えようと考えていたのだ。 だが、そこに迷いがあった、とリーソンはいう。 そのモーツァルトの迷いはなんだったのか、についてリーソンは述べていないが、長大で本格的なフーガは、極めて宗教曲的であっても、バッハに代表されるように極めてバロック的である。 モーツァルトは、決してバロック的な宗教曲は書きたくなかったのであろう。 モーツァルトのほかの作品にも、長大で本格的なフーガがないのは、俗にいわれるように「モーツァルトはフーガが書けなかった」のではなく、書くことを拒否したのだ。 それは、彼のオペラ・セリアを聴いても分かる。 バロック的な華やかさと強靭さはあるものの、そこには、温かな優しさがみなぎっているではないか、と私は思う。
[リーソン] pp.276-277

スヴィーテン男爵とは既にモーツァルトは第2回のウィーン旅行中(1768年)に出会っていたが、当時モーツァルトはまだ12才の少年であり、当時35才の男爵のバロック音楽の作品収集との接点はなかった。 しかし男爵は少年モーツァルトの優れた才能を忘れることなく、よく覚えていたのである。 それから14年後、ウィーンで出会うことができたのは幸運であった。 スヴィーテン男爵はよき理解者としてモーツァルトを熱心に支え続けてくれたからである。

ファン・スヴィーテンは、モーツァルトが徹底的にバッハを研究するための機会となった。 モーツァルトはこの庇護者の弦楽三重奏団のために、まず『平均律クラヴィーア曲集』のなかから3曲のフーガ、『フーガの技法』のなかから1曲、オルガン・ソナタ(2番)1曲、さらにW・フリーデマン・バッハのフーガ1曲を編曲した。 これらのうちの4曲には、緩いテンポの前奏曲をつけ加え、他の2曲のためにはバッハのオルガン・ソナタのなかの楽曲を前奏曲として利用した(K.404a)。 ファン・スヴィーテンの4人の演奏者(モーツァルト自身はヴィオラを引き受けたのであろう)のためには、『平均律クラヴィーア曲集』第2巻から取った5曲のフーガの編曲(K.405)が自筆楽譜として残っている。 それらは本来は6曲ないしそれ以上あったと思われる。
[アインシュタイン] p.217
オッフェンバッハのアンドレから「編曲された6つのフーガ」が出版されたという記録が残っているので、本来は5曲でなく6曲であり、そのうちの1曲が紛失してしまったと思われる。 当時の習慣からも6曲セットが普通であり、5曲というのは不自然である。 したがって、全部で48の前奏曲とフーガから成るバッハの『平均律クラヴィーア曲集』からモーツァルトは6つの曲を選び取り、その4声のフーガを4つの弦楽器に編曲したものであり、作曲の動機はスヴィーテン男爵からの依頼と考えられる。 すなわちピアノ曲を「4つの弦楽器で演奏したいので、モーツァルト君、ひとつ編曲してくれないかね、そのかわり楽譜はいくらでも貸してあげるよ」と男爵から求められたのではないだろうか。 なお、自筆譜には別人の手で「モーツァルトによって2つのヴァイオリンとヴィオラとバスのために編曲された」ことが書かれてあるという。 編曲された時期は「4月10日の手紙」が書かれた頃か、または5月26日に開催された第1回アウガルテン演奏会用だったとも考えられるが、確実なことは何もわからない。
余談であるが、『平均律クラヴィーア曲集』はバッハが使った名称ではない。 彼が出版した曲集のタイトルは『Wohltemperirte Klavier(英 Well-Tempered Clavier)』であり、「Wohltemperirte」または「Wohltemperierte」とは「ほどよく調律された」という意味である。

1783年12月
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のちに、1783年12月6日と24日、オペラ「カイロの鵞鳥 K.422」が完成間近いことを伝える(ザルツブルクの父への)手紙で「ゼバスティアン・バッハのフーガをできるだけ早く送ってください」と書いているが、そのフーガとはこの曲のことであろうと思われている。 であるとすると、この曲は作られた(編曲された)あとレオポルトの手に渡ったことになる。 父レオポルトの方から編曲を見たいと言っていたのかもしれないし、ザルツブルクでモーツァルト父子を含む4人の弦楽演奏者で実際に演奏する機会があったであろう。 事前に楽譜を送るとかのやりとりを示す手紙が見当たらないので、モーツァルトが新妻を伴ってザルツブルクを訪問したとき(1783年7月末)に持参したことも考えられる。

演奏
CD [NECアベニュー NACC-5043] t=10'40
ターナー四重奏団 Quatuor Turner / シャモロ Adrian Chamorro (vn), モッチア Alessandro Moccia (vn), ヴァッスール Jean-Philippe Vasseur (va), スヴェイストラ Ageet Zweistra (vc)
1990年12月

参考文献


 

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2011/07/17
Mozart con grazia