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交響曲 第35番 ニ長調 「ハフナー」 K.385

  1. Allegro con spirito ニ長調 4/4 副主題を欠く変則的なソナタ形式
  2. Andante ト長調 2/4 ソナタ形式
  3. Menuetto ニ長調 3/4 複合三部形式
  4. Presto ニ長調 4/4 ロンド風ソナタ形式
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, bs
〔作曲〕 1782年7月、1783年3月 ウィーン
1782年7月
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1782年7月にセレナードとして書かれた。 この年の夏、ザルツブルクのハフナー家のジークムント2世(Siegmund Haffner, 1756-87)が貴族に列せられることになり、7月29日に催される祝祭用セレナードの作曲を父レオポルトを通して依頼された。 この頃ウィーンで一人立ちしようと決心したモーツァルトの方は多忙を極め、特に7月16日のブルク劇場でのオペラ『後宮からの誘拐』(K.384)初演に全力をあげていた。

7月20日
今は仕事を沢山かかえています。 来週の日曜までに、ぼくのオペラを吹奏楽に編曲しなければなりません。 でないと、だれかが先を越して、ぼくの代りに儲けてしまいます。 それに新しい交響曲も一曲書かなければなりません! どうすればそんなことができましょう! そんなようなものを吹奏楽に直すのが、どんなにむずかしいことか、お父さんには信じられないでしょう。 吹奏楽にぴったり合って、それでいて効果が失われないようにするなんて。 そこで、夜はそのために使わなければなりません。 そうでもしないと、どうにもなりません。
[手紙(下)] pp.62-63
この手紙には、オペラ上演を妨害する陰謀があり、初演のときよりも19日に行われた2回目の公演のときの方がひどかったことが書かれている。 単に作曲あるいは編曲するだけのことならモーツァルトにとって朝飯前だったであろうが、このような精神的なストレスを伴う状況にあって、落ち着いて仕事に没頭できなかったとも考えられる。 さらに言えば、8月4日のコンスタンツェとの結婚をひかえ、ウェーバー夫人との間にもストレスが発生していた。 それから26日には3回目の上演があったが、このときは大いに喝采を博し、モーツァルトは満足であった。 そのことを伝える手紙にはようやくこの頼まれ仕事に着手したことが書かれている。
7月27日
最初のアレグロしかお目にかけないので、びっくりなさるでしょう。 でも、ほかに仕様がなかったのです。 急いで夜曲を一つ、といってもただの吹奏楽用に(さもなければお父さんのために使えたでしょうが)、書かなければならなかったので。 31日の水曜日に二つのメヌエットとアンダンテと終曲を−−できれば行進曲も−−お送りします。 できない場合はハフナー音楽の行進曲(これはあまり知られていません)を使っていただかなければなりません。 これは、お父さんの好きなニ長調で書きました。
同書 p.64
ここで「アレグロ」とか「二つのメヌエットとアンダンテ」などと書いているのは、この『ハフナー・シンフォニー』のことである。 また、「夜曲」とはセレナード第12番ハ短調『ナハトムジーク』(K.388)である。 「ハフナー音楽」とは『ハフナー・セレナーデ』(K.250)であり、その行進曲とは K.249 である。 さらに「できれば行進曲も」と書いている曲は「3つの行進曲の第2番ニ長調 K.408-2」であるが、これは遅れて8月7日に送ったので、7月29日の祝典に間に合わなかった。 結局、行進曲は K.249 を使ったのだろう。 それだけでなく、この時点では「最初のアレグロ」しか送っていないことになり、しかも手紙の日付が「27日」であり、ウィーンからザルツブルクまで何日かかって郵便が届いたのかとか、演奏の練習に必要な時間などを考えると、とても「29日の祝典」には間に合ったとは思えない。 すなわち、急ぎ書かれたセレナード(モーツァルトは「ハフナー音楽」あるいは「ハフナーのための新しいシンフォニー」と言っている)はまったく用をなさなかったことになる。 几帳面なレオポルトが祝典の日付を事前に伝えなかったとは考えられず、むしろモーツァルトの側に本気で作曲しようとする意欲がなかったのではないかとすら思えてくる。 すると、モーツァルトが言う「オペラ上演を妨害する陰謀」とやらも誇張された口実なのかもしれない。 ザルツブルクの名士ハフナー家の29日の祝典の方は、計画的に物事を進めるタイプのレオポルトが手持ちの息子の楽曲を再構成して、あるいはもしかしたら同僚のミハエル・ハイドンの協力を得るなどして、上記「7月20日」の手紙よりもっと前から入念に演奏の練習を重ねていたとも考えられる。

その後、モーツァルトは自身の都合でこの「ハフナー音楽」の返却を父に求めている。 しかし父レオポルトはすぐには応じなかった。

12月21日
機会があり次第、ぼくがあなたの求めに応じてハフナーのために書いたあの新しいシンフォニーを送ってくださいとも頼みました。 ぼくはそれを四旬節までに必ず手に入れたいのです。 というのは、ぼくの演奏会でぜひ演奏したいと思っているからです。
[書簡全集 V] p.310
四旬節は復活祭前の約40日間をいうが、1783年の場合は3月5日の「灰の水曜日」から始まる40日間であった。 モーツァルトはそれまでに返して欲しいというのである。 レオポルトからの返却がすぐになかったことについては次のような理由も考えられている。
筆写譜を手元に作らずにハフナー家に献呈してしまっていたためレーオポルトが取り戻すのに苦労したからであろう。
[野口]
想像をたくましくすれば、レオポルトは「送り返すのを遅らせて少し困らせてやろう」と思っていたかもしれない。 折も折、息子は父の反対を押し切って結婚した(1782年8月4日)ばかりであった。 年を越して、1783年にさらにモーツァルトは懇願する。
1月4日
ヴィーンでぼくが書いたこないだのハフナー音楽については、原譜でも写譜でも、どちらを送ってくださってもかまいません。 だって、いずれぼくの演奏会のためになんども写譜をさせなくてはならないでしょうから。
[書簡全集 V] p.323
1783年3月





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さらに、1月8日には「忘れないでください」、1月22日には「できるだけ早く送ってください、本当に必要なんです」と矢のような催促を繰り返し、ようやく取り戻すことができたが、それは2月15日の少し前だったようである。 残念ながらそのオリジナルの曲は失われ、交響曲に手直ししたものが残った。 そして演奏会は3月23日にブルク劇場で行われた。 どれだけこの「ハフナーシンフォニー」が必要であったか、当然その報告はかつてないほど詳細に父レオポルトに伝えられなければならない。
3月29日
ぼくの演奏会の成功について、あれこれ語るまでもないと思います。 たぶん、もう評判をお聞きになったでしょう。 要するに、劇場はもう立錐の余地がないほどで、どの桟敷席も満員でした。 なによりもうれしかったのは、皇帝陛下もお見えになったことです。 そして、どんなに楽しまれ、どんなにぼくに対して拍手喝采してくださったことか。
同書 p.351
モーツァルトは父が高貴な身分の人に弱く、特に皇帝が出てくればもう何も言うことができなくなることを知っていた。 そして、とどめの一言「皇帝から25ドゥカーテン賜りました」と書くのを忘れない。 それからおもむろに演奏会の曲目を並べるのである。 もちろん演奏会の最初と最後に演奏されたのがこの「ハフナーシンフォニー」であった。
  1. ハフナー・シンフォニー(K.385)
  2. アロイジア・ランゲの独唱でオペラ「イドメネオ」から4つの楽器による伴奏でアリア「もし私が父を失い」
  3. モーツァルトの独奏で「ピアノ協奏曲ハ長調」(K.415
  4. アダムベルガーの独唱でバウムガルテンのためのシェーナ(K.369
  5. セレナーデ「ポストホルン」(K.320)より第3楽章
  6. モーツァルトの独奏で「ピアノ協奏曲ニ長調」(K.175)と「変奏曲によるロンド」(K.382
  7. タイバー嬢の独唱でオペラ「ルチオ・シルラ」(K.135)からのシェーナ「私はゆく、私は急ぐ」
  8. モーツァルトの独奏でフーガの即興演奏と「パイジェルロの主題による変奏曲」(K.398)と「グルックの主題による変奏曲」(K.455
  9. アロイジアの独唱で新作のロンド(K.416
  10. ハフナー・シンフォニーの終楽章
モーツァルトが父を納得させるために書き記したこのプログラムは当時の音楽会の形態を知ることのできる貴重な資料として至るところで紹介され、そしてシンフォニーの役割は今日とまったく違うことを示す一例としてよく引き合いに出される。
このうち1と10とはオーケストラだけの音楽で、物陰で演奏される(音楽会が劇場で行われる場合はピットで演奏される)。 1は開幕の合図の音楽であり、10は終了の合図の音楽である。 この2つは音楽会のプログラムの外であり、クリストファー・ホグウッドの言葉によれば音楽会の「額縁」(フレームワーク)なのである。 実際の中味は2から9まで計8曲である。
[石井] p.255
もちろん「額縁」がなければ格好がつかないから、省略することはできない。 その後、音楽会の主役に器楽曲の王である交響曲が据えられるようになる。 しかも重厚で荘厳な交響曲こそ最高の音楽であるとする人たちによって、この「ハフナー」に対する評価は低く見積もられ、片隅に追いやられている。
事実それは成功を収めた。 しかし、モーツァルト自身がこの曲を自分のシンフォニーのなかに加えたとはいえ、この曲はやはりセレナーデとしての成立上の刻印を持っており、なにか合の子的な作品である。
<中略>
なにか華美なもの、強調されたものがあって、まるでつねに自分の実用性と実用の機会を指示しているかのようである。
[アインシュタイン] p.297
今日では、モーツァルトがのちに作った「偉大な」シンフォニーが演奏会プログラムの主要部となっているのに対して、この「ハフナー」は演奏会の始めと終り用の演目としたときに「最上のもの」というのである。 また大胆にも「バッハを最高位に置いている私たち」と言うオカールも「合の子の作品」と認めつつ、スヴィーテン男爵を介して得たモーツァルトのバッハ体験をもとに、次のように断言している。
『ハフナー交響曲』の真価はかかって最初のアレグロにあり、これはセレナードのジャンルばかりでなく、それまでのモーツァルトが考えてきたかぎりでの交響曲のジャンルまでも打ち破っている。 バッハの芸術に接したために、彼は「辛辣なハーモニーに満ち、鋭いリズムのためにとげとげしくなっているフガート」を書く気になったのだ。
[オカール] p.85
これは、モーツァルトが、遅れてしまったとはいえ、行進曲を父に送った1782年8月7日の手紙に「第一楽章のアレグロはすごく情熱的に、終楽章はできるだけ速く演奏されなくてはいけません」と書いていることを考慮した上での批評であろう。 「合の子の作品」とは恐れ入るが、このような表現の根底にはセレナードより交響曲の方が高級だとする根強い考えがある。 作曲者自身がこれを聞いたら失笑するかもしれないが、今日の演奏会でもこの曲をプログラムの中心に据えると、「重厚で偉大なシンフォニー」すなわち「難しい作品」を期待する聴衆の不評を買うであろう。

のちにモーツァルトは2つの交響曲、この「ハフナー」と「第33番変ロ長調」(K.319)を、1785年に「作品 VII」としてアルタリアから出版した。 また、1786年にはこの「ハフナー」を含むかなりの作品をドーナウエッシンゲンのヴィンター(Sebastian Winter, 1744-1815)に贈っている。 彼はモーツァルト家の従僕であった人物で、このとき生まれ故郷のドーナウエッシンゲンにいて、当地のヴェンツェル侯に仕えていた。 さらに1789年にはパリのシベールからも出版された。 自筆譜はアメリカのある個人が所有し、長い間閲覧できなかったが、その後ニューヨークの国立オーケストラ協会の所有となり、1968年に復刻された。 それによると、ザルツブルクへ大急ぎで送ったセレナードの楽譜の空いた部分にフルートとクラリネットのパートが書き加えられているという。 それがこの曲の最終稿であるが、アルタリア版やシベール版にはその追加がまだ行われていない。 セレナードとして作曲が着手され、さまざまな事情を経て、4楽章のシンフォニーの最終稿になるまでこの曲には5種類の形があることが野口によって示されているが、この「合の子の作品」はなんと作曲者自身に愛されていたことか。 繰り返し催促して父から返却してもらったことに対する礼状(1783年2月15日)でモーツァルトは(3月23日の)演奏会で、アインシュタインが言う「始めと終り用の演目として最高の」効果をあげるに違いないと喜んでいた。

新しい『ハフナー・シンフォニー』には、まったく驚きました。 だって、ぼくはもうまったく忘れていましたからね。 間違いなく、すばらしい効果を発揮するでしょう。
[書簡全集 V] pp.341-342
最初のセレナードの形は不明であるが、野口は詳細な研究・分析の結果「7楽章」であるとしている。 楽章の数を決める際にメヌエットの存在が重要であるが、アンダンテをはさんでメヌエットは2つあったはずであり、そのうちの1つは改作のとき切り捨てられ、それが紛失してしまったという。 ただし、当時はメヌエット第1といえば「メヌエット」であり、メヌエット第2は「トリオ」を意味していたらしく、メヌエットは2つでなく、この曲に含まれている1つのみであるという説(ザスロー)もある。 しかし野口はザスロー説を否定し、7楽章から成る「ハフナー・セレナード」(フルートとクラリネットなし)を復元する試みを発表していて、非常に興味深い。

〔演奏〕
CD [BMGジャパン BVCC-9701] t=17'38
トスカニーニ指揮NBC交響楽団
1946年
CD [CBS Odyssey MBK 44778] t=19'08
ワルター指揮コロンビア
1959年
CD [エールディスク GRN-593] t=19'08
※上と同じ
CD [Deutsche Grammophon 429 803-2] t=18'47
ベーム指揮ウィーンフィル
1981年頃
CD [ポリドール FOOL 20373] t=21'39
ホグウッド指揮
1982年
CD [PHILIPS PHCP-10551] t=22'08
ブリュッヘン指揮18世紀オーケストラ
1985年
CD [NAXOS 15FR-019] t=19'04
パル指揮ブダペスト
1987年
CD [ANF S.W. LCB-103] t=20'57
アッパード指揮ヨーロッパ
1987年
CD [SONY SRCR-8948] (5) t=9'30
ヴァイル指揮ターフェルムジーク・バロック
1990年
CD [Boston Skyline Records BSD 144] t=27'00
クロル・パーラー・フィルハーモニック
1997年
フンメル編曲版
CD [Membran 203300] t=18'49
Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino
演奏年不明

〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=yNDFJwWHnRA] (1) t=5'50
[http://www.youtube.com/watch?v=KNQGmwC4sCA] (2) t=6'55
[http://www.youtube.com/watch?v=k1aBvt8ZLE4] (3) t=3'37
[http://www.youtube.com/watch?v=XkdaHraQ1Ko] (4) t=4'24
Karl Böhm (cond), Wiener Philharmoniker
[http://www.youtube.com/watch?v=ROUdYQWHWUk] (1) t=2'34
Claudio Abbado (cond), Berliner Philharmoniker
European Concert at Smetana Hall, Prague, 1 May 1991

〔参考文献〕

 

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2012/02/12
Mozart con grazia